57:恋の理想と現実・2
「千歌ちゃんはいつだって一人で抱えこむんだもん、どうして言ってくれないの。誰にも言えない恋なんて、楽しくない、辛いだけでしょう? なのにいつだって笑ってて」
「あんたにはわかんないわ」
「決めつけないで! わたしにだってわかるもん! わたしばっかり、子供みたいに――」
突然喚き出した花乃に、千歌は虚をつかれて凍りついた。自分の秘密を言い当てられた動揺で気付かなかったが、最初から花乃の様子はおかしかったのだ。何かをこらえて張り詰めること、ましてやそれが切れてしまうことなど、花乃に限ってあるはずがないと思っていた。
「どうしたの……花乃。一体何があったの」
花乃は両手で口を覆って、言葉にならない嗚咽を噛み殺している。
こんな泣き方をする子ではなかった。いつだっておおらかに笑い、おおらかに泣く、千歌が憧れてやまないまっすぐな気性を持っていた。過保護な妹の気持ちも解ると何度思ったか。その花乃が、身も心も傷付いて錯乱している。
この姿を佳乃に見せないために花乃はうちに来たのだとようやく悟った。
「花乃は好きな人がいるの? ――それ……まさか、殴られたの?」
花乃は黙って肩を震わせるだけだったが、それが肯定のしるしになった。今度は千歌が危うく動転するところだった。
「一体誰が。忍くん――なわけないわね、じゃあ忍君のことが好きだっていう女子でもいたの?」
「ちがうの、福原くんはなんにも関係ない……。ただわたしがいけないの」
再びぐすぐすと鼻をすすり出した花乃を見ながら、千歌は曖昧ながらも確信に近付くための情報整理を始めた。つまり関係ないと断言された忍には本当に関係のない、まったく別の人に対する恋心を花乃が抱いてしまったということ。そしてその相手は一筋縄で行かない相手ということ。その筆頭が、花乃を殴って爪のあとまでこびりつかせていくような、血気盛んな女の存在。
確認はしなかったが、その代わり千歌は一つため息をついた。
「あたしと花乃は違うけど、聞きたいっていうなら教えてあげる。あたしが高澄とのことを誰にも言わないのは、それだけのことをしたという自覚があるからよ。高澄も負い目がある。誰かに祝ってもらえるような恋だなんて、あたしたちは思っていないわ」
あたしの店の近くに高澄の家があるから、昔から知ってたのと千歌は言った。
「幼馴染っていうのかしら、時々遊んだり何かと接点はあったのよね。中学も一緒に通ってたし……。でも高校に入ってすぐ高澄は翔子と付き合い始めた。あたしは翔子と同じクラスで、友達だったから、誤解されないように高澄とは距離をおいたの」
千歌と高澄、なんて思いつきもしなかった組み合せだと思っていた。二人が幼馴染だなんて感じさせるようなものは何一つなかった、それほどまでに完璧な演技だった。
「でもなんか……皮肉みたいに、離れると、こう、辛くて。そこでやっと自分の気持ちに気付いたっていうんだからバカよね。それでも3年間我慢して、でもこのままじゃ忘れられないって思って、高澄を呼び出して言ったの。止めてくれないなら、独りで地方の大学に行くって」
千歌が地方の大学に行こうとしているなんて知りもしなかった。本当になにもかも知らなかったのだと思うと、居た堪れなさと同時に、胃のあたりに熱いものがこみ上げてくる。
「いっそきっぱり振られたかった。そのつもりだった。でも、行くなって言われて……あとは知っての通りよ、二人は別れた。驚いたけど……それを全く願っていなかったなんて、あたしには言えない」
「――どうして? 辛いって思わないの、悪いって思わないの」
花乃の頭の中はもはや理想と現実、理性と感情が入り混じって爆発しそうな有様だった。自分が何を言おうとしているのかも判らない。千歌の話すことがどういうことか、それがどれだけ自分に近いか、花乃はよく解っていた。解っていてなお、それにとんでもない嫌悪を感じた。
再び感情を昂ぶらせた花乃に、千歌は真摯な、それでいて醒めた目を据えた。
「それは思うわ。でもどうしろって言うの? たとえば翔子に謝って、それだけでわだかまる気持ちがどちらからもすっきりなくなると思う? 少なくともあたしは無理。でも自分のしたことの罪悪感で身を引くような、そんな愚かな女にだけはなりたくない。あたしは高澄が好きだったのよ、今だってそう」
こんなものじゃない。
こんなはずじゃなかった。
恋は、こんな自分勝手できたないものなんかじゃない。
「千歌ちゃんは間違ってる。わたし、そんなの絶対にいやだ」
花乃が自分から何かを完全に拒絶することは初めてだった。
花乃が昔から信じて憧れてきた恋愛は、お互いのただ一人の存在として出会って、周囲に祝福されながら二人で幸せをはぐくんでいく、そんな綺麗で温かな想いのことだった。
それが恋だと信じていた。
けれど――人を好きになると言うことは、どれだけ痛くて、どれだけ重いものなのだろう。
その人を愛しいと想うだけでは幸せには届かない。誰かを傷付けて、傷つけられて、悲しんだり恨んだり、そんな凶暴な感情ばかりが先に立ってくる。自分をかわいそうと思うだけでころころと転がり出てくる涙は、余計に自分を惨めにするだけで――こんなものだなんて思わなかった。
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