59:傷だらけの片瓜
「花乃っ!」
佳乃が廊下に飛び出したとき、花乃はもうすでに階段に足をかけていた。おまけに、佳乃の声に振り向きもせずに駆け上がろうとする――まるで逃げるみたいに。
佳乃は咄嗟にひるがえるコートの裾をふんづかまえた。「待ちなさい、なんで逃げるの!」
花乃の体は何の力も働かないかの如く簡単に傾いだ。バランスを崩した双子は慌てて手すりにしがみつき、その憤慨もこめて佳乃は花乃を睨みつけたが、その険は一瞬にして転がり落ちた。
声を出すことも出来ず吸い寄せられた視線の先に、貼り付けられた大きなガーゼ。全体的に腫れた片頬と、目立たないけれど唇の引き攣った跡。うさぎのような、腫れぼったい目。
まるで二つの瓜のようだと言われた自分たち。そのうちの一つが、傷だらけになっていた。
「……か、……花乃、それ、こ、これ……」
佳乃が震えながら伸ばした手は、さりげなく、けれども明確な意思を持って花乃に避けられた。
「なんでもないの……ちょっと、転んじゃっただけ」
「そんなはずがないでしょう!」
真っ青になった佳乃は今にも叫び出しそうな有様だった。コートや手足には何の傷もついていないのに、花乃の白くて綺麗な肌だけにきつく残されたそれ。おぞましい予感――
「――誰がやったの」
「佳乃ちゃん、違う」
今まで俯いていた花乃が顔を上げた。その目は思いがけず強く佳乃を射た。
「これはわたしが転んだの。そう言ったよ? 聞こえなかった?」
「言いなさい。アイツ――あの、磐城、なの?」
震える佳乃の声に花乃は細い眉をひどく歪め、痛みをこらえるような表情になった。花乃がこんな顔をするのを佳乃は見たことがなかった。だが花乃は、それ以上の衝撃を妹に与えた。
「違うって言ってるのに、どうして聞こうともしてくれないの。それに、わたし、佳乃ちゃんに命令されるすじあいなんてないんだから。もうわたしにかまわないで」
瞬間、ぽろりと指から力が抜けた。その隙を奪って、花乃は階段を駆け上がったが、もう佳乃にそれを追う気力はわいて来なかった。――今、花乃、なんていったっけ?
花乃は佳乃を見下ろす格好で振り返り、その潤んだ目を細めた。鏡だと思った……自分の表情が、花乃にシンクロして、そのまま映し込まれるんだと。
「佳乃ちゃんだって、わたしに立ち入られたくないことあるでしょう? わたし、もう佳乃ちゃんがいないとなんにもできない子供じゃない。一人で考えて、一人で決められるんだもん」
そう言い放って、花乃は自分の部屋に駆けこんだ。鍵のかかる乾いた音が廊下に響く。
佳乃は受けた衝撃を消化しようとずっと階段に佇んでいたが、やがてのろのろと自分の部屋に戻り、ベッドに腰掛けた。枕を膝の上で抱きしめて、残響のようなものが空虚に響く頭を振る。
(花乃に、いらないって、いわれた……)
その後も、佳乃は夕食も食べずに塞ぎこんだ。こんなときにいつだって出てくる暖かい花乃の紅茶も、今日は現れる兆しがなかった。花乃の魔法が消えてしまった。
最初は大事な片割に拒否された悲しみが心を支配していたが、少しずつ落ちついてくると、花乃に何があったのかを知らなければならないと思った。自分の吐き出す言葉で確かに花乃は傷付いていた。佳乃に対してもあんな言葉しか言えないほど、花乃の心は傷んでいたのだ。それくらい判らない妹じゃないのよあたし、と佳乃は自分に強く言い聞かせた。
何が花乃をあんな風に変えてしまったのか。けれど、佳乃がそれを聞くことは出来ない。
「――ちくしょーーーーっ!!」
佳乃は絶叫し、クッションを壁に力一杯放り投げたあと、スマホを掴み取った。
かつて花乃が、自分を突き放した佳乃に父親というアドバイザーを用意してくれたことを思いだす。あの時の花乃もひどく傷付いたに違いないのにと思うと涙が滲んだ。
(あたしに出来ないなら、出来るヤツに頼むまで……! く、くやしいけど! 背に腹は変えられない!)
相手の第一声を苛立たしく待ちながら、佳乃は自分にもできる唯一のことを考えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます