53:昏い恋路・1
「わ、わたし、一人で帰れます。昨日の夜電話したら、佳乃ちゃん迎えに来るって。もう駅まで来てくれてるかもしれないし……センセイは学校でしょう」
昨夜午前様にも関らず、花乃が携帯に電話をすると佳乃はワンコールで飛び出してきた。そのときの怒りの勢いは普段慣れている花乃でも仰天するほどのものだったが、必死でよくよく話して(しまいには自分が佳乃の外泊のアリバイを立てた過去を持ち出して)聞かせると、英秋に対する怒りをふんだんに含ませた声音のまま、明日あさいちに迎えに行くから駅で落ち合うと約束することで許してくれた。佳乃のことだから、それ以前にちゃんとアリバイは立てておいてくれたのだろうけれど。
佳乃の話をすると英秋は苦虫を噛み潰したような顔になる。
「アイツが来るなら、俺は行かない方がいいな。入試監督だから早めに出るか」
「わたし、着替えてきます」
逃げるように踵を返して、花乃は寝室にかけられたワンピースを手に取った。ぐるぐるぐると、今までなら考えもしなかったような感情が心をかきみだして、いてもたってもいられなかった。
たしかに手に入れたと思った、いとしいという感情。そして、それはほんの少しのものかもしれないけれど、たしかに二人の間に通じ合ったと思った。あの至福が今では夢のようで。
(夢だったの? ほんとうに)
唇をかみ締めていないと、わけのわからないやりきれなさに押しつぶされそうだった。
愛しいとか好きだと言う気持ちが、こんなものを連れてくるなんて知らなかった。先生だからとかじゃない、もっと深くて暗いもの――おかしくなってしまいそうなくらいに強い衝動。
(ただ好きなだけじゃダメなの? どうしてわたし、センセイをひどいなんて思うの)
(どうして、ほのかさんを思うだけで、こんなにいやな気分になるの)
(佳乃ちゃんは花が咲くって言ったのに――言ったのに、こんなの花じゃない……)
恋を受け入れた瞬間の痛みは、甘く柔らかく締めつけられるような痛みだった。だったらこの痛みは、もっと致命的なものだ。この想いの息の根を止めようとする意志を感じるほどに容赦がなく、暴力的。今まで人に対してこんな感情を抱いたことがなかった花乃にとっては脅威だった。
おだやかでない衝動を追い払うように慌ただしく身支度を整えた花乃は、仕事部屋で書類を漁っている英秋の背に向かって大きく頭を下げた。
「あのっ、センセイ、本当にありがとうございました! わたし、帰ります」
「ああ……鍵開ける」
部屋を出たところでもう一度朝食を勧められたが、花乃はただ首を振った。実のところ昨日の昼食すら食べていなかったのだが、ここまでくると空腹ももはや気にならない。
何故か外の様子を覗う素振りを見せてから英秋はチェーンを外し、ドアを開けた。途端に吹き込んでくる風が花乃の髪を舞い上げる。
「あの、ごめんなさい、さよならセンセイ」
何故か振り返ることができず俯いて歩き始めた花乃の頭に、大きな手がふわりと乗せられた。さりげなく髪の乱れを直す指先が、まぶたの上をかすった。いつも冷たい手。
それなのに、どうして触れられるだけで、こんなにも心は揺さぶられるのだろう。
「謝る必要なんてない。まったく、たいした紫の上だな、お前は。――またな」
エレベーターの中で、花乃はぺたりとへたりこんだ。
(どういう意味? さっきの、なに……?)
振り返ることは出来なかったけれど、彼の声は穏やかだった。いつもの皮肉ではないと思った、そうであってほしいと願った。わからないことや不安なことだらけなのに、傷付いたばかりの心は、少しの救いを求めてその言葉の謎ときに夢中になる。
複雑な胸中でエレベーターを降りて、マンションのエントランスを出る。高架の方向を見て駅の位置を確かめようと顔を上げた花乃は、歩道沿いにぽつりと止まっている赤い車に目を止めた。
足が、動かなくなった。
「おはよう、よく眠れた?」
運転席からすらりと脚を伸ばして降り立った彼女の髪が、風になびく。
ヒールをならして花乃に向きなおったその表情は、たしかに微笑んでいた。細められた目尻はわずかにあの艶美を滲ませ、口角と口角を結ぶ唇は柔和に笑みをたたえている。
それにも関らず、花乃は一瞬震えた。本能的なものかもしれなかった。
「やっぱりあなただったのね、『紫』ちゃん」
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