54:昏い恋路・2

 夜更けに止んだ雪が、アスファルトの上でじわりと解け出しながらまたたいている。

 白くきらきらと反射する朝日のなかで、ほのかは腕を抱くようにして立っていた。品のいいジャケットの胸元からのぞく赤いシャツの衿が、花乃の目をくらくらさせた。

 モデルの使命は、あらゆる衣服との完璧なシンクロ。クリスマスに見たほのかはとても華奢で、その儚さが病的な色気を増して見せていたが、今朝の彼女はかっちりとしたパンツスーツに身をかため、女という性別よりも先にその才知と能力を前面に押し出すキャリアのいでたちだった。それでもまとめることなく梳きおろした長い黒髪は、寝癖で飛び跳ねる花乃のそれとは全く別物のように艶やかで。

 立ち止まってしまった花乃を見てほのかは無言で微笑み、その足を踏み出した。

「英秋が居留守を使うから、こんなことじゃないかと思ったわ。吹きこんだのは、あなた?」

「え――」

「あの人の腕を掴んで、出るなとでも言ったの?」

 その声は楽しげですらあった。けれど、目の前に立ったほのかの目を見て花乃は慄いた。

 冷笑で固められた侮蔑と憎悪。真っ向からそんなものを向けられたことがない花乃は、ただただほのかの迫力におされた。

 居留守――?

 混乱する頭に、ふとよぎるもの。花乃の目覚めを呼んだのは、チャイムの音ではなかったのか。いや、もしかしたら昨夜自分が寝ている間にほのかが来ていたのかもしれない。気付かなかっただけで。

 身動き一つせずただ見上げてくる花乃に挑戦的な笑みを向け、ほのかは組んでいた指を唇に押し付ける仕草で言った。

「私が甘かったのかしら? あんな可愛らしい彼氏を連れてたから、すっかり騙されちゃったわ」

 花乃は咄嗟に息を吸いこんだ。違う、と言おうとしたけれど、ほのかはそれを許さず。

「おそろしいガキ。最低ね」

 瞬く間に微笑の仮面を脱ぎ捨てて、そう言い放った。


「わ……わたし、そんな、つもりじゃ」

 ようやく花乃は口を開いたが、それはほのかが沈黙のまま自分を見下ろし続けているからだった。弁解出来るものならしてみるがいい、そうその眼は言っていた。

「じゃあどういうつもり。自分がしたことをわかっていないの? お嬢ちゃん」

「ほ……ほのかさん」

 花乃の額に指先を突きつけて、ほのかは囁くような声で続けた。「あら、私のこと覚えていてくれたの。じゃああなたは確信犯というわけ? いまいましいにもほどがあるわね。婚約者のいる人間を寝取ろうだなんて、恥ずかしいとか申し訳ないとか思わないの」

 婚約者――その響きに体が竦んだ。

「アナタみたいな子供は目障りなのよ。英秋が優しいからつけあがった? かわいそうに、彼はあなたみたいなのを好きになったりはしないわよ。人を騙すのはお手のものなんだから」

 花乃は、彼女にしては大変珍しいことに、かっとなって口を挟んだ。「ちがいます、センセイはそんな人じゃないです! どうしてそんなことを言うの、ほのかさんは先生の大事な――」

「じゃあアナタ、英秋の何を知ってるっていうの?」

 即座に切り返されて、花乃は言葉に詰まった。彼のことで知っていること、それはひどく限られたことだった。他の生徒たちが知らないことを知っている、それが嬉しくて考えないようにしていたけれど、英秋の根源と呼べるような過去を花乃は何一つ知らない。

 ほのかは冷たい目で花乃を見下ろした。

「教えてあげましょうか。英秋はね、ホストだったのよ。女に貢がせることが仕事なの」

 花乃は目を見開いた。

 ホストという仕事が具体的にどんなものなのかを花乃は知らなかったけれど、あまりいい響きのものではないと思った。同級生の女の子が、ホストに入れ込んで大変な目にあったと言う噂話を夕子から聞いたことがあったからかもしれない。

 困惑する花乃に、ほのかは続けて言った。

「女なんか掃いて捨てるものだって言ったわ。搾り取ったらポイ、それの繰り返し。それが今や名門校の教師ですって、おかしな話。あの頃の接客用の顔が今でも随分役に立ってるようだけど」

 英秋の二面性の正体をやすやすと明かして、ほのかは乾いた声で笑った。

「こんな子供を周囲にのさばらせておくなんて、英秋も落ちぶれたものね。まあ、彼がこんなのを相手にするわけはないって解ってるけど、時々何かの拍子に血迷うこともあるかもしれないし」

 ほのかの指が額から離れた。ほっとした刹那のことだった。

「私としては正直、ひどい屈辱なのよ。――これくらいは当然よね?」

 花乃の左頬を、激しい衝撃が見舞った。

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