52:朝のあいさつ
『先生、トリヒキしてあげる。あたしなら先生のゆめ、二つとも叶えてあげられるわ』
『あたしのメリット? あたしは自分で全部手に入れる、でも、丁度良かったの』
『執着も邪魔、恋愛も邪魔。ただあたしの邪魔をしない存在が身近にほしかったのよ』
なんてガキだ。初めてあいつと話したとき、たしかそう思った。
軽やかに弾むような、ごく短いごあいさつ。
いつもの音とは違うそれに、花乃はうっすらとまぶたを持ち上げた。カーテンの隙間から白い光がまっすぐに差しこんで、目覚めたばかりの瞳孔を驚かせた。しばらく何度かまばたきを繰り返して、花乃はようやく身を起こす。
お気に入りのカフェカーテンも仲良しのぬいぐるみもない、可愛げのかけらもない寝室。昨夜は暗くて解らなかったけれど、思っていた以上に簡素だった。それからいつもの調子できょろきょろと辺りを見まわして目覚し時計を探したけれど、ベッドわきのものは小さなアナログの時計で、本当にささやかな秒針の音しかたてていなかった。
(……さっき、なにか鳴らなかったっけ。気のせい?)
いつもなら、自分の目を覚ましてやろうと頑張ってくれている時計を諌めたあとにもう一度ベッドに潜りこんでしまうところだが、今朝はさすがにそれはできなかった。慌てて大きなベッドから這い出して床に足をつこうとすると、思いがけず裾を踏んづけて転がり落ちる。
フローリングの冷たさに身をすくませながら、花乃は改めて自分の格好を思い出した。
「あ、センセイのじゃ足も手も出るわけないよね、イタタ」
あまりにサイズが違いすぎて笑うしかないような格好を、花乃はしている。
夕方から夜中までぐっすりと寝こけてしまった花乃のドレスは皺だらけ、それを見た英秋は渋い顔をして花乃と着替えを一緒に脱衣所に放りこんだのだった。深夜に、それも人の家で風呂場を使わせてもらうことなど考えもしていなかったので最初は戸惑ったが、色々ありすぎて眠れそうもなかったのでおとなしく長風呂に浸って。手足が丸々隠れてしまうようなパジャマに着替えて。出ていったらセンセイはソファで寝てて、ダイニングのテーブルに暖めたミルクが置いてあって。
で、それ飲んだら急に眠くなって、寝てしまった――というのが顛末だった気がする。
「………」
昨夜のことは夢じゃないだろうかと思って、花乃は頬を抓った。今は確かに痛いけれど、一度眠りの壁を挟んでしまったことは本当に現実味がなかった。なにかとんでもないことをされたような気もするし、してしまった気もするのだけれど、寝起きは本当に何もかもが曖昧で。
まるで、醒めるのをいやがる夢のよう。
花乃は立ちあがり、ズボンの裾を引きずりながら寝室を出た。リビングを横切る細長いシルエットに、ほっと息をつきながら声をかける。「センセイ、おはようございます」
英秋はネクタイを締める手を止めて、奇妙な顔で花乃を見つめた。彼にしてはひどく珍しく、何度も口の端を上げたり下げたりしたあげく、眉根を寄せて、唸るような声でおはよう、と返した。
花乃が怪訝な顔をするのを見て英秋は小さく息を吐く。「慣れてないんだ」
「……あいさつに、ですか? だって、いつも学校では普通に」
「学校と家は違う。お前だって演技ならどんなことだってできるだろう」
花乃は目を丸くした。もしかして家を出れば全てが演技だとでもいうのだろうか――それはひどく不自然な状態のようにも思えたが、花乃はそれよりも気になったことを素直に尋ねた。
「ひとりぐらしだから? でも、家族の前で挨拶はするでしょう?」
「――いいや。ほのかもそういうのには疎い女だからな」
「え?」
家族、といったのにどうしてほのかがそれに連なるのか、しばらく理解できなかった。
ダイニングにはトーストとコーヒーだけが用意されていたが、英秋は手をつけるようすもなく、さっさと身支度を整えていく。次ぐ言葉も忘れて、花乃はぼんやりとそれに見入っていた。
見入るように見せかけて、ひどい混乱を押し隠そうと、芽生えたばかりの恋が努力していた。
(それって)
ようやくそれに気付いたのは――気付く覚悟が出来たのは、英秋が振り返ったからだった。ふいに固まってしまった花乃を怪訝な顔で見下ろし、そしてやがて勘付いたのか、眉を寄せる。
(ほのかさんが、センセイの家族になる人だからだ)
まどろみから抜け出たばかりで、何の覚悟も出来ていなかった。
ほころび始めた花は柔らかく、羽化したばかりの蝶はたよりない。
それと同じような状況にある無防備な心に、確信はあまりに深く突き刺さった。
会いたいと思ったことが叶って、その気持ちを手にすることができて、しあわせで閉め出してしまっていたもの。それが一気に雪崩れ込んで来て、心の中はぐちゃぐちゃになった。
花乃は言葉を失って黙りこみ、英秋も花乃から目を逸らして呟いた。「さっさと着替えろ。そこの食ったら送るから」
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