26:恋愛アドバイザー・1

 ふんわりと笑う見なれたはずの笑顔が、今の忍にはひどく遠く異質なものに見えた。

 信じたくない、考えないようにしていたけれど、いざ花乃の口から英秋の話を聞くと、その微笑みすらも重く心に圧し掛かって恨めしいほどだった。

 佳乃の言葉がぐるぐると頭を回る。とんびに油揚げ。

「福原くん、寒くない? だいじょうぶ?」

 無邪気に覗きこんでくる花乃の大きな目、小さな唇。肩から零れ落ちる髪。

 忍はため息をついた。愚かにも、まんまと佳乃の暗示にかけられてしまったのかもしれない。

 ――けれど、他の誰かが、この小さな体に触れるのだけはたまらないと思った。


 花乃は手にしていた黒い缶を取り落とした。わけが解らず手を泳がせるけれど、冷たい空気を掻くだけ。拾いあげるにも体が動かなくて、ぱちくりと何度もまばたきを繰り返した。

 押しつけられた頬は最初は冷たかったのに、すぐに熱くなっていく。

 ようやく、抱きしめられたのだと判った。


「花乃ちゃん、好きなんだ」

「ふ、福原くん? え?」

 花乃は混乱しながらもとりあえず身を離そうとしてみたけれど、びくともしなかった。

「答えは急がないっていったけど、やっぱりダメなんだ、ごめん……オレ、そんなに強くなかった」

 耳元で響く忍の声には、花乃にも聞きとれるほどの焦りがあった。

「返事が欲しいんだ。今すぐとは言わないけど、――せめてクリスマスまでに」

 忍は自分に言い聞かせるようにゆっくりと腕の力を抜いて花乃を放した。呆然と立ち尽す花乃の足元に転がった缶コーヒーを拾い上げて、意味ありげにそれを凝視したあと、差し出して言った。

「きっぱり断ってくれたら、もうこんなことしないから……ごめんな、いきなり」


 忍が行ってしまったあとも、花乃はしばらく身動きできずに立ち竦んだまま、渡された缶を胸元に抱きしめていた。そして、ようやくのろのろとしゃがみこんで、取出口に出てきたはずの自分のホットミルクティーを取りだそうとした。

 だが、掴み出したものは、どういうわけか極限まで冷やされた栄養ドリンクのなんちゃら黄帝液だった。

「…………」

 何故こんなものが高校の購買にあるのかがまず納得いかないのだが(おそらく教職員の意向が働いたのだろう)、先ほどよろけた勢いで思いも寄らないボタンを押した結果らしい。虚ろな目でしばらくそれを凝視していた花乃は、しゃがみこんだまま膝に顔をうずめてうめいた。

「どうしよう……」

 色々な意味をこめて、もうそれしか言えなかった。

「わたし、どうしよう……」


 花乃は心底どうすればいいのか解らなかった。忍のことはいい人だと心から思っている。触れられることに嫌悪を感じたわけでもなかったし、むしろその腕の中は温かいとすら感じられた。

 けれど、『恋』と名付けられた感情が自分の心の中にあるとは、まだどうしても思えなかった。あの佳乃を散々翻弄し、怒らせて泣かせて悩ませた、それほどの得体の知れないエネルギーを秘めたものを自分が持っているとは、到底信じられない。

(佳乃ちゃんは花が咲くっていった……)

 まだどこにも咲いていない。それはわかる。けれど、そのタネのようなものがどこかにあるのかもしれない、とも思う。忍とつきあうことでそれが芽吹くかもしれないし、違う誰かに対して芽吹くためにまだ殻を保っているのかもしれない。考え始めるとまったくキリのない未知の予想図。

(どうしよう、どうしよう。答えなんて出せない。なにもわからないよ……)


 英秋が短くなったタバコを携帯灰皿に放り込んだとき、教室の扉が開いた。どこか――いや、それはいつものことだが――気の抜けたような顔をして、買物に行っていた花乃が立っていた。

 振り返った彼の目は花乃の持つ缶に注がれた。「ああ、ごくろう。遅かったな」

「はい……えと、ちょっとあって……」

 花乃がもごもご言いながら席に戻ると、英秋はひょいと缶コーヒーを取り上げた。触れた感触で何故かその缶がいびつに歪んでいるのに気付き、眉をひそめて花乃を見た英秋は、花乃が手にもっているものをみてますます胡乱な顔つきになった。

「顔に似合わず、えらくまた濃い趣味だな、お前」

 英秋の視線の先に気付いた花乃は、自分の手もとに目線を落としてぎょっとした。栄養ドリンク。冷たさのあまりに感覚が麻痺して、もう持っていることすら忘れていた。

「や、これは……ま、間違えてボタン押しちゃって! せ、センセイよければ飲んで下さいっ」

 花乃が大慌てで冷たい瓶を押し付けると、英秋は呆れた顔でため息をこぼした。

「新手の誘惑でももうちょっとマシな言い訳使うぞ。ホント間抜けだなお前……まあいいや、そのうち飲むか。間違えたなら何か他に買ってくれば」

「あ、いいんです……いつもおごってもらってばかりじゃ悪いです」

 ぶっきらぼうな申し出を丁重に断って、英秋がコーヒーを飲む間、花乃は自分の膝もとをじっと見つめていた。今は何を飲んでも味など判らない気がする。ぐるぐると頭の中を巡る忍の声が、全ての感覚を持ち去ってしまう。

(どうしよう、クリスマスまでだなんてあと3日しかないよ……)

 花乃にしたら一口で精一杯であろう苦さのコーヒーを一気に飲み干し、乾いた高音を響かせて缶を置いたあと、英秋は俯いたまま固まっている花乃に向かって突慳貪に口を開いた。「なんだ」

「え?」

「なんかあるなら言えよ。そんな葬式みたいな顔で授業受けようなんて気じゃないだろうな。だったら今日はここでお開きにするぞ、辛気臭い」

 花乃はしばらくあっけに取られていたが、ようやく英秋の意図に気付いてあっと声を上げた。

「センセイに……気にしてもらうようなことじゃ……」

 そこでしばらく考える。英秋の第一印象がよみがえる。生徒を篭絡するシーンの強烈なインパクト――思い出すと知らずのうちに全身がこわばって、花乃は無意識のうちに体を引きぎみにしながら英秋を見上げた。

 発した声にも宿る、かすかな緊張。

「ひとつ聞いてもいいですか……」

「ん?」

 怪訝な顔で見下ろしてくる英秋に、花乃は思いきってそれを尋ねた。

「センセイ、恋ってなんですか」

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