27:恋愛アドバイザー・2

 英秋は虚空を見つめ、眉根を寄せ、地を這うような声で唸った。

「――あー、待て……日本語を間違ってやいないか関口。この問題の答えは、とか、関係代名詞って何ですか、とか。彼女は、とか、恋愛経験は、とかなら聞かれたことはある」

「いえ、恋っていうのは何……」

 根気よく繰り返そうとする花乃にむかって制止の合図を送ったあと、英秋は組んだ指の上に額を乗せて項垂れた。とても絵になる『苦悩する人』の図が完成した。「聞くんじゃなかった……」

「えっと、コレが恋だって解るような、目印みたいなのでいいんです。知ってたら教えてくれませんか? 佳乃ちゃんは花が咲くとかいうんだけど、わたし見つけられなくて」

 英秋の柔らかな猫毛が、今は頭と一緒に妙に重たげに垂れている。項垂れたかたちのまま、無言で石のように固まってしまった英秋に、花乃はおそるおそる手を伸ばした。「センセーイ?」

 指先がふわりと髪に触れる。顔を上げた英秋と目があう。

「あー、悪いけど俺に聞かれても困る、けど言えっていったの俺だしな。うーん、要するにお前はまったく好きとかいう感情を知らないってことか?」

「好きっていうか……だって、みんな好きだし、それと恋と、どこがどう違うのかわからないです」

「この天然記念物め……」

 かなり本気で毒づいてから、英秋は渋々と言った様子で顔を上げた。「俺には解らんが、お前はもてるんだろ。近所の男子校の奴らが騒いでるって職員室でも噂になってたぞ」

 紫事件のことだと気付いて、花乃は目を丸くした。まさかそんなところまで広まっていたとは。

「ええっと、あれは……わたしだけど、わたしじゃないんですよ? みんな誤解してるみたいだけど、テレビで流れたのは、佳乃ちゃんが演じた須磨のシーンだったもの」

「あー、あの妹か。アイツの方こそ二重人格じゃないのか、紫とは程遠い性格だろう」

 記憶の限りでは、顎にくらった拳は女子高生の可愛らしいポカッと一発、どころの話ではなく、まさに「一撃」だったと英秋は断言できる。

 苦虫を噛み潰したような顔になった教師には気付かず、花乃は嬉々として話し続けた。「佳乃ちゃん綺麗だったでしょう? あの時佳乃ちゃんホントに辛い恋してて。だから余計に紫さんの切ない気持ちが伝わってきて、そこにきっとみんな感動したんだね」

 妹の勇姿を嬉々として語る目の前の花乃と、先日乗り込んで来た佳乃の姿を思い返し、英秋は盛大に嘆息した。高校3年にもなって、貴重とも異形ともいえる純粋培養の天然娘が存在するのは、ひとえにその過保護にもほどがある強力な双子バリアのせいに違いない。

「あ、でも佳乃ちゃんの恋はちゃんと実ってね、すっごく素敵な彼氏がいるんです。遠距離恋愛だけど、すごくすごく素敵な恋してて。ずっと羨ましいなあって思って……」

 その彼氏の存在意義が今自分のために大ピンチに陥っているのだがそんなことは知る由もなく、誰も聞いていないことを嬉しそうに喋り続ける花乃を、英秋は間近で呆然と眺めていた。

(変な女……)


「で? なんで恋が知りたくなったって? 妹が羨ましいからか?」

 そろそろ面倒になってきた英秋は、だんだんと脱線して行く花乃の話の糸口を取り戻すために割り込んだ。花乃は急に黙り込んで俯き、何かを悩んでいたようだったが、顔を上げたときの瞳に迷いはなかった。小さな声で、その口火を切る。

「告白……されたん、ですけど、わたしよく解らなくて。その人のこといい人だと思うし、尊敬してるし、嫌いになることは考えられないんです。でも、恋の好きっていうんじゃない気がして……」

「要するに、なにもわからないってか」

 頷く花乃の顔は真剣かつ神妙で、英秋は思わず笑い出しそうになった。いまどき、こんなことで唸るほど真摯に思い悩む人間がいるとは思いもしなかった。それは彼にとってある意味新鮮で、ある意味不気味な感動だった――こんなにも自分とかけ離れた人間の存在が。

 自嘲にも似た微かな笑いをこぼし、英秋は突然言った。

「じゃあ、やってみれば」

「え?」

 顔を上げた花乃は、思いがけず英秋の微笑にとらえられて驚いた。

「前例もないなら、とりあえず行動して自分で感じ取るしかないだろう。試しにつきあってみることで、何か失うわけでもなし。もし、それで恋の何たるかがわかったなら儲けものじゃないか」

「そ、そんなものなんですか……?」

 呆気に取られて絶句する花乃に、英秋は軽々と手を振ってみせた。「そうそう。延々わからなければその相手は恋にたる相手じゃなかったってことだ。そんなもんだろ」

「あのう……ちょっといい加減に聞こえるんですけど、気のせいでしょうか」

「気のせいだ」

 椅子の上にふんぞり返って言い切る英秋に圧され、花乃は黙り込んだ。恋を神聖視する花乃にとってはかなりの荒療治になりそうな回答だったが、それにも一理あった。自分で経験するまでは、いくら考えても解るはずがない――それが英秋のいう恋愛の法則。

(考えたって、わからない。行動しなきゃだめ……自分で、見つけなきゃだめ)

 再度自分に強く言い聞かせると、それは意外にするりと花乃の中に収まった。怖がっていてはいけない、なにごともチャレンジが大事だと続けて自分を叱咤する。

 息を吸いこんで、花乃は一つ大きく頷いた。

「わかりました。わたし、とにかくやってみます! ありがとうございます、センセイ」

「ああそ。まあ、礼言われるようなこと言ってないけどな……」

 妙に疲れ果てた様子の英秋に、花乃は思い出したようにもう一つ尋ねた。つい口に出ていた、というのが正しいかもしれない。それまで何故か考えもしなかったようなことなのに、突然の衝動に駈られて訊かずにはいられなかった。

「センセイは、つきあってる人いるんですか?」

 英秋は戸惑う様子もなく、抑揚のない声であっさりと、「いるよ」とだけ、答えた。

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