25:監視する二人

「ちょっと、ほら、見た今の! 何よアレーっ! 先公のくせに生徒の前でタバコくわえていいと思ってんの、ていうかくっつきすぎだっつのよゴルァ離れろ陰険男ーッ!」

「ちょっと、ま、落ち着いて、押さないでくれ佳乃ちゃ……ぎゃあ!」

 右手に双眼鏡、左手には傍らにいる男子の首根っこを力一杯掴んで揺さぶりながら、佳乃は誰もいない3年棟の廊下窓際で絶叫した。揺さぶられた勢いで3階の窓から身を乗り出す羽目になった男子生徒は、窓枠に両手をかけ必死の形相で此岸に留まろうとしていた。

 双眼鏡から目を離して、佳乃は血走った目でぐるりと振り向いた。

「落ちつけですって、よくも言えるわね福原くん! 花乃があんなのに誑かされてもいいわけ!」


 花乃と英秋の和解が成立しようがしまいが、佳乃にとってはもはや非常事態もいいところだった。教師に恋をする花乃――それだけでも救いようのない状況だというのに、相手を確かめてみれば、あの教育者の片隅にもおけないような不良教師だという。

 一棟向こうの窓を監視する限り二人の会話は全く聞き取れないが、無声でも健気かつ可憐なふるまいの姉に対する無礼極まりない態度の英秋に、佳乃の怒りはすでに沸点を軽々越していた。

 そしてその怒りをもろに食らう羽目になったのが、傍らでへとへとになっている忍だった。電話で突然呼び出された忍は、満足な状況説明もないままに佳乃のハリケーンに巻き込まれ、興奮状態の彼女を抑えるのに精一杯でろくに向かいの窓を見ることも出来ない。

 正直なところ、そんなはずはないという否定と、ありえるかもしれないという不安がない交ぜになったような気持ちのまま、その光景を見る勇気がなかったのかもしれない。

「た、確かに磐城先生人気あるけどさ……飛躍しすぎじゃないか、佳乃ちゃん」

「甘い、甘いのよ! 福原くんだって見たでしょう、アイツ文化祭から花乃にまとわりついて」

「教師なら当然だよ、生徒を助けるのは」

 長身の英秋が、花乃を軽々と抱き上げるのを目前で見た。確かにあの時、一瞬だけだったけれども幼稚な悋気がわき上がったことも覚えている。

 けれどその行動に他意があるはずもない――彼は教師なのだから。

「……花乃に告白したんでしょう。だったら、最後まで努力してよね」

 佳乃は窓の桟から手を離し、忍の手に双眼鏡を押しつけた。

「とんびに油揚げさらわれても知らないよ。あたしは絶対許さないからね、あんな男に花乃を渡すくらいなら福原くんのほうがよほどマシなんだからね、応援してるのよ!」

(マシって……仮にも本人を目の前にして言うか普通……)

 相手が佳乃でなければ力一杯突っ込みたい心地だったけれども、片割のことで我を失った佳乃ほど恐ろしいものはないと本能的に察知していたので、忍は沈黙を守った。

「あたし、予備校行かなきゃいけないから帰るけど。あとは頼んだから!」

 言い捨てて豪速で走って行ってしまうあたり、よほど時間が押していたのだろう。そこまで粘る佳乃も佳乃だが、ろくな反論もせずにその場に居残ってしまった自分も自分だ。

 忍は深くため息をついて、渋々双眼鏡を覗き込んだ。こんな覗き見みたいな真似はあまり気が進まないけれど。

「あれ?」

 白い煙を吐き出す英秋、その向かいに座っていたはずの花乃の姿がない。

 双眼鏡を離して広い視野を取り戻した忍の目が、小さな黒い影を捉えた。コートを羽織って一階の渡り廊下を歩いているのは花乃だった。そのまま中庭を横切って、購買の方に向かっている。

 忍はとっさに荷物を抱えて一階へ向かった。



 自動販売機の前で寒さに身を縮めながら、花乃は英秋から預かった小銭入れを握り締めた。

「センセイはブラックのホットコーヒーで……わたしは何にしようかなあ」

 英秋がタバコを吸っている間に、花乃が温かい飲み物を買ってくるというのが、この数日の内に繰り返された一種の習慣だった。どうしても煙草の煙を間近で吸うことに慣れない花乃がやり始めたことだったが、立ちあがった花乃に英秋はいつも小さなコインパースを投げてよこした。そして長い指を立てて二本買って来いと無言で告げる。花乃は笑って頷いて、せっせと使い走るかわりに、かじかむ手に溶け込むような温かい飲物を手に入れるのだった。

「ココアにしようかな、うーん、それとも新製品のミルクティーにしようかな」

 500円玉を放りこんでからしばらく口元に手を当ててうんうんと考え込んでいた花乃は、背後に近づく気配にもまったく気付かずにいた。だから、ようやく決意してミルクティーのボタンに手を伸ばした瞬間、冷えた手で突然肩を叩かれて飛びあがるほど驚いた。ひゃあ、という悲鳴を上げて自動販売機に寄りかかった花乃の掌に平べったいボタンを押す感触が伝わってきて、あっと思ったときにはもう何かが取出口に転がり落ちてきたあとだった。

「わ、もしかして驚かした? ごめんっ」

「福原くん」

 花乃は驚いて間近に佇む忍を見返した。「どうしたの、お休みなのに学校なんて……」

 忍は何か言いたげに、けれどもそれを押し殺すように曖昧に微笑んだ。ふとその視線が花乃の持つコインパースとブラックの缶コーヒーに止まり、曖昧だった微笑がゆっくりと見えなくなる。

「それ」

「あ、これ? 息抜きにね、いつも買いにくるの。センセイのぶんと、わたしのぶんだよ」

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