24:面倒な取引

「え――いま、なんて?」

「悪かったって言ったんだ」

 怒られて拗ねる子供のような顔で、英秋はぷいとそっぽを向いた。「どうもオレは昔からの陰険な部分が抜けないらしい……忘れられただけならまだしも、お前があの時とはあまりにも違う態度だったから、オレまではぐらかすつもりなんだと思ったんだ。生徒に舐められるのが頭に来て、ついネをあげるまで……相手をしてやろうと……まさか双子だとは」

 いつの間にか自分が「お前」呼ばわりになっていることにも、謝罪というには上から目線の言い訳がましい口調だったことにも気づいていたが、花乃はただ黙ってその言葉を聞いていた。語尾はほとんどしどろもどろで聞き取れなかった。

 滅多にないことだが、例えば授業中にミスをした場合、彼は軽々と誠意のある謝罪をしてみせた。誰もがその一言で納得するような明朗とした謝罪は彼が得意とするもののはずだった。

 ならばなぜ今、こんなにも要領を得ない方法で謝ろうとしているのだろう。花乃は首をかしげてまじまじと英秋を見た。視線に気付いた英秋は、ばつの悪そうな顔で花乃を睨む。

「なんだ、何か文句でもあるのか。……こういうのは慣れてないんだ」

 その時に花乃は気付いた。英秋の二重人格ともいえる使い分けられた態度の実体は、すべてこちらがわにあるのだと。

 笑顔で飾り立てて心にもない言葉を言うのは彼にとっては簡単なこと、けれど、心を言葉にして伝えることに関しては、とんでもなく不器用なのだと――


(素直にあやまることに、慣れていないなんて。まるで子供みたい……)


 花乃は思わず吹き出した。一度笑い出すと止まらなくて、暖かいコーヒーを口元にあててくすくすと笑い続ける花乃を、英秋は怪訝な顔で見下ろしていた。

 花乃は笑いを滲ませたまま顔を上げた。もう、少しも英秋を怖いとは思わなかった。

「じゃあセンセイ、面倒なとりひき、お願いしてもいいですか?」

「取り引き?」

「はい。補習、ちゃんとやってください。わたし休まずに来ます。演技が上手なセンセイのことも、もっと色々知りたいし、あ、もちろん英語の勉強も教えてほしいし」

 ニコニコと機嫌よく言ってのける花乃を、英秋は呆れた顔で呆然と眺めていた。

 そして、頬杖をはずして彼がとりあげた教科書が、花乃の頭にぽすんと乗せられる。

「……変なヤツ!」

 そう言って笑った英秋に、花乃もまた花咲くような満面の笑顔を返した。


 どこからやってくるものなの?

 いつかの魔法みたいにやわらかな、

 この、想い――



「はい、和訳。"Would you care for a cup of tea?"」

「え……えと、お茶を一杯……いれてください」

「違う。お茶を一杯いかがですか。じゃあ次。"Would you mind my smoking?"」

「えと、え……私のタバコを……まいんど……」

「はい時間切れ。タバコを吸ってもよろしいですか。――お前ホントに弱いな口語、それでどうやってこの学校入れたんだ。次は集中的に叩くからな、ちゃんと予習してこいよ」

「うー……はぁい」


 英秋と交わした『面倒な取引』は、意外にも破られることなく続いていた。厳寒期もピークを迎える12月半ばだというのに、彼は花乃一人の補習のためにきっちりとやって来てそれをこなした。

 他に誰もいない教室は静まりかえって、二人のやり取りだけが冷えた空気に響く。英秋の声は低いけれど何故か聞きとりやすく、反響すると耳朶にあとひく余韻を残す。普通の女生徒ならその声に聞きほれて補習どころじゃなかったかもしれないが、幸か不幸か、花乃は彼のハイペースな指導についていくのに必死でそれどころではないのだった。

 英秋は花乃の前の椅子に腰掛け、机に肘をついてプリントをこなす花乃を凝視したりする。そうかと思えば、教壇で横を向いたまま足を組んでじっとテキストを睨んだりする。やはり通常の授業では考えられないような不遜な態度ばかりだったけれど、いくら厳しくとも、冷ややかな笑顔で微笑みかけられる以前よりはよほどありがたいことだった。現に、英秋のことを色々知りたいと思っていた花乃にとって、まったく益のない補習ではなかったのだから。

「あー……タバコとか言うから吸いたくなってきた」

 微妙にそわそわしだした英秋に、花乃は休憩をもちかけるべくテキストを閉じて話しかけた。

「センセイってヘビースモーカーなんですか?」

「ん? いや、そんな吸ってない。ああでも最近は一箱吸うか……昔はそうでもなかったのにな」

「いつから吸ってるんですか?」

 内ポケットからよく見かける臙脂色のシガレットケースを取り出して、英秋は一本口にくわえた。質問されると面倒そうな顔つきをしながらも、聞かれたことには案外素直に答える。それが、花乃に対する彼なりの誠意の表し方なのだろう。花乃もそれに薄々気付いていたが、だからといって世間話を遠慮しようとは思わない程度にはしたたかだった。

「そうだな、法律で認められる年からということにすれば、もう7年目か」

 その言い方ではまるで認められない頃からのキャリアがあるように聞こえたが、花乃は純粋に別のところへ驚きを示した。「え、はたちからで、7年? じゃあセンセイ、いま27才なんですか?」

 英秋はきょとんとした顔で花乃を見返した。「……そうだけど。なんだ」

「もっと若く見えるから、ちょっとびっくりしました。童顔なんですねえ」

 なぜか嬉しそうに笑う花乃に、英秋はお前だけには言われたくないと小声で返して黙り込んだ。

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