23:二人の和解

「!」

 頭の中が真っ白になったと思った次の瞬間には、花乃は通話ボタンを力一杯押していた。

「も、もしもし!」

『ああ……いたのか』

 ことごとく張りを失ったえらく気怠そうな声は、授業中のものとはまるで別人。その分耳許に低く響くささやきが、無駄に花乃の緊張を高めてくる。

 自分の声が上擦るのを自覚しながら、花乃はまず最初に正直な疑問を口にした。「センセイ、番号、どうして……」

『学生基本台帳を少々失敬したら、連絡先に携帯が書いてあった。家の方にかけて、あのやかましい妹が出るとたまらないからな。不都合だったか?』

「い、え……」

 こういうのを職権濫用というのではないだろうかとふと思ったが、口には出さないでおいた。

 またしばらく沈黙を挟んだあと、今度は英秋が口を開いた。

『……あー、用件だけど。明日来なくていいから』

「えっ?」

『補習参加組の残りの二人は、どうやら来る気がないようだから別のクラスのスパルタ補習に移すことになった。あと……関口は、もともと来なくても大丈夫だろうし、来たくもないだろう』

 花乃は見えないと解っていながらも首を傾げた。

「大丈夫じゃないです。だってテストだって半分もとれなくて」

『……お前、後半の回答欄ほとんどずれてたんだぞ。気付いてなかったのか。アレでまともに書いてれば、80点は取れてただろうよ』

「ええー!」

 花乃は大声で叫び、慌てて口を塞いだ。そういえば英語のテストは佳乃の直接指導の甲斐あってかなりのヤマが当たった筈だったが、緊張のあまりにがちがちになっていたのも事実だった。英語で80点など奇跡に近い点数だったのに、無惨にも崩れ去った事が悔やまれてならない。

『だから、もう来る必要はないんだ。そういうことだから……じゃあ』

「せ、センセイ、待って!」

 今にも会話を断ち切られそうな気配がしたので、花乃はスマホを両手で構えて叫んだ。

「わたし、行きます! 明日! センセイとちゃんと話したいから!」

 受話器の向こうにほんのわずかな無音があり、すぐに回線の途切れる音がした。ツー、ツーという無機的な音を聞いていると、あれほど冷たかった英秋の声さえも暖かかった気がした。



(センセイ来ないかもしれないけど、それならそれでいいもの)

 花乃は律儀にもいつも通りの時間に学校に到着した。寒さは日に日に厳しくなり、吐き出す息はいつにも増して白く、分厚い手袋で完全装備のはずの手もかじかんでうまく動かなかった。

 閉めきられた教室の前ですっかり冷えきった手に息を吹きかけていた花乃は、突然背後から異常な温度の物を押しつけられて飛び上がった。振り返ると、目の前に大きな手に掴まれた缶コーヒーがあった。

「お前を見てるとあんまり寒そうだったから、そこで買ってきた」

「センセイ……」

 英秋は花乃の手に缶を落とすと、閉めきられた扉の鍵を開けて中に入っていった。花乃は熱くてじっと持っていることの出来ないコーヒーを両手に挟んでくるくると回しながらそのあとにつづいた。今来たばかりなのか、

丈長のコートを羽織ったまま彼はヒーターの電源を入れ、教卓に腰掛けた。

「さて……まあ大体予想は出来るけど、話って? 今までの仕打ちを償えとか、学校に言うぞとかそういうことだろう」

 花乃は扉の脇に立ったまま、目を丸くして英秋を見返した。「ちがいます」

「じゃあなに。悪いけど面倒な取引は勘弁してくれよ」

 今度こそ花乃は絶句した。

 投げやりにそう言った英秋は、どこかふてくされたような顔に見える。

 長い足を投げ出して腰掛けている彼を見ているうちに、花乃は不思議な気持ちが生まれるのを感じていた。思うようにならないもどかしさと諦めの混じったような心地だけれど、それは何故か嫌悪を感じる感情ではなかった。

 教卓の前までてくてくと歩いていって、花乃は微笑んだ。

「センセイ、わたし、お礼が言いたかったんです。文化祭の時に、倒れたわたしを保健室まで運んでくれたんでしょう? 誰だか解らなくてずっと探していた人がセンセイだって解って、すごくびっくりしました。佳乃ちゃんが舞台を終えたあとも心配して駆けつけてくれたって聞いて、本当に嬉しかったんです。ありがとうございました」

 深く一礼をした花乃の肩からさらさらとこぼれ落ちた髪を、英秋は呆気にとられて眺めていた。

「……変なヤツ」

 ぽつりと聞こえた声に顔を上げると、英秋は頬杖をついて花乃を見ていた。その表情は、花乃が今までに見た彼のどんな明るい笑顔よりもあたたかなものだった。ほんの数ミリ唇の端が上を向いただけの微笑とも言えないような表情だったけれど、その眼差しに初めて温度を見いだすことが出来たからかもしれない。

 それだけでも花乃にとっては驚異だったのだが。

 驚いた花乃が顔だけを上げた格好で呆然と固まっていると、英秋はふいに視線を逸らして呟いた。


「すまない」

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