13:資料室の密会

「あっ、あの!」

 早足で校門を抜けたところで突如呼びとめられて、花乃は振り返った。近くの男子校の制服を着た数人が、かたまってこちらの方を見ている。

「……あの、なにか?」

「あ、やっぱりあの子だ! よし行け!」

 わけが解らず呆然と立ち尽くしている花乃の前に、下級生らしい男子が転がるような格好で飛び出してきて、花乃の目の前にいきなり両手を突き出した。その手には、紙の束。

「ろ、ローカルニュースとか文化祭で、げ、劇を見て……っ。む、紫のお姫様の子だよね? これ、抜け駆け禁止の同盟組んでっ、代表して持ってきたんで受け取って下さい!」

「?」

 わけのわからぬまま、つい手を伸ばして花乃がそれを受け取った瞬間、正体を確かめる間もなく男子たちは一斉に手を振って駆け去って行ってしまった。一人で校門前に取り残された花乃は、嵐の行き過ぎたあとで茫然とその紙束に視線を落とす。

 ノートの切れ端やルーズリーフ1枚1枚に書かれた劇の感想と、紫の姫君――花乃への告白めいた言葉。

 そして、そのいずれにも、最後に主役の如く強調されて書かれた携帯番号。

「ええぇ……どうしよう……」

 やたら滅法もてる時期が一生に一度はあるというのが本当なら、まさに今がそうなのかもしれないなあと、まるで人ごとのように花乃は思った。タイミングよく下校途中だった夕子が、校門わきからこっそりとその光景を目にしていた事にも気づかず。

 そして翌日、『紫の姫君』事件はひらひらと派手な尾ひれをくっつけて、見事に学年中に広まっていた。



「おはよう、紫の上! 今日は日直ね」

「もう、千歌ちゃんまでそんなこという……なんで皆知ってるの?」

 当番なので早めに登校してきた花乃は、教室に現われるクラスメイトから次々と『紫の上』事件の顛末を尋ねられ辟易としていた。総告白攻撃にあったとか、プレゼントを山ほどもらったとか、あげくにはガラの悪い男に拉致されそうになったとかいう巨大な尾ひれすらついていて眩暈がした。

 苦笑を交えて千歌が返す。「昇降口の伝言板にこっそりと……いやかなり派手に書いてあったわよ。まあ、どうみても夕子の字だったけどね……」

「もーっ! 夕子ちゃんてば! そんなんじゃないのに……みんな、ただ劇の感想をくれただけだよ」

「ただの感想に、わざわざ団体で花乃をまちぶせたりしないと思うけどね?」

 鋭い千歌の突っ込みに花乃は唇を尖らせた。非常に弁解し足りないが、これから次のグループ学習で使う辞典を取りに行かなければならない事を思い出して席を立った。

「本当に、そんなのじゃないんだから。んもう、教材資料室行ってくる~」

「いってらっしゃーい、紫ちゃん♪」


 図書室のとなりに小さくこしらえられた教材資料室は、地図や辞典といった授業で必要な教材が大量に保管された部屋だった。保管というよりはほぼ放置といったほうが正しいような無法地帯で、ドアを開けたところで花乃は早くも辞書の雪崩に巻きこまれかけた。

「うええ……この中からそろいの古語辞典を8冊も探さなきゃいけないの……」

 山のように積み上げられた新聞や教科書を必死でまたいで、ようやく書棚まで辿りついた花乃は、そこに天地無用で倒されたドミノのようになっている辞書の背をひとつひとつ目で追わなければならなかった。英和、和英、独和、草書、地名、人物。目がちかちかしてくる。

「古語、古語……あ、1冊見っけ、あと7冊……」

 ごそごそと二列目、三列目の棚の奥まで捜索していた花乃は、資料室の扉を開けて誰かが入って来たことにも気付かなかった。ようやくそれに気付いたのは、辞書をすべて見つけて一列目まで戻って来た際に、耳に滑り込んできた声があったからだった。


「こんな所へ呼び出して、何の用かな」

 どきっとした。すこしかすれたような、低い声――磐城先生の声だとすぐにわかった。

「だって先生人気あるから。ここなら誰にも邪魔されないでしょ?」

 花乃は思わず身を縮め、書棚の陰から扉の方をうかがった。こちらに背を向けて立つ長身の背広姿は間違いなく英秋で、その向かい、扉にもたれる格好で彼に対峙しているのは黒い制服の女生徒だった。赤茶けた髪の、見覚えのない生徒――オトナっぽい外見をしているが、下級生かもしれない。

(……わたし、なんで隠れてるんだろ)

 別にやましいことなど一切ないにも関わらず、何故だか足が動かなかった。ただでさえ薄暗い資料室の空気が、枷になってどっしりと足首にまとわりついている気がする。こういう微妙な空気の正体は掴めなくとも、本能は危険回避経路を知っているらしい。

「――邪魔って?」

「やだな、先生。解ってるくせに。顔、笑ってるもん」

 くすくすと、なにかを含んだような甘ったるい少女の笑い声が、狭い室内をひそやかに満たす。

(どうしよう、もう行かないと授業間に合わないんだけど……)

 花乃は逡巡し、両手で抱え上げている辞書を見下ろした。非常に重い。このままでは明日の筋肉痛は決定的だ。

 途方にくれた花乃は、何も考えずにこの場を飛び出してしまおうかと思った。

 けれど、その次の一瞬だった。


「あたし、先生のことが好き。先生だって、楽しみたいって思うでしょ?」

 するり、とまるで舞の仕草のように軽やかに少女は腕を伸ばし、それは花乃の見ている前で優雅に英秋の首もとに絡みつく。そして、そのまま少女は背の高い英秋をかがませて。

 至極当然の大胆さで、唇と唇を重ねた。


(え、ええと、わたし)

 それがいわゆる『キスシーン』だと花乃が認識したのは、軽く5秒が経過したあとだった。


(……どうしよう)


 両腕が悲鳴を上げていたが、いまやとても何食わぬ顔で出ていける状況ではなく。

 花乃は果てしなく途方にくれ、ただ呆然と、重なった影を凝視することしかできなかった。

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