12:源氏と紫

「聞いてない」

「同じく聞いてない。なにアレ」

「フツー高校教師があんな明るい色のスーツ着こなせる!?」

「あれじゃモデルだよ。背高い足長い、声めちゃくちゃいい」

「ていうか今日からまじでやるよ英語、本気でやるよ!」

「ああ~何歳なんだろ~っ、磐城先生~!」

 SHRが終わり、教師二人が教室から出て行くやいなや、夢に飢えた女生徒たちは口に噛ませていたサイレンサーが吹っ飛んだような勢いで爆発的に叫び出した。あちこちからわき上がる猛獣のような雄叫びを、男子たちは恐ろしいものでも見るような顔で遠巻きに眺めていた。

「またレベルの高い先生がきたもんねー。神崎君がいなくなって、女子の愛でる華が消えたと思ったらこれだから。いやはや、退屈しないわ」

 振り返った千歌は、ぼんやりと教壇の方を眺めている花乃をつついた。

「あれ、どしたの? もしかして花乃もあの先生にやられちゃった? 意外に面食いだったの、あんた」

「ううん、そんなんじゃないんだけど……」

 確かに綺麗な顔をした人だとは思ったけれど。目が合ったことにもびっくりしたけれど。

 けれど、本当に驚いたのは彼の顔立ちじゃなくて――あの声。

 静かに落ちついて、どこかかすかに冷たさを含んだような、大人の男の声だった。

(なんだろう……あの声、どこかで聞いたような気がするんだけど、気のせいかな……?)


「花乃ちゃん」

 物思いにふける花乃の前にふと陰がよぎり、顔を上げると忍が立っていた。珍しく微笑みも浮かべず、弱ったような表情で花乃を見下ろしている。花乃は後夜祭の出来事を思いだしていささか動揺したが、忍に気を使わせないためにもいつも通りの微笑で迎えた。「なあに?」

「あのさ、さっきの先生……もしかして文化祭で」

「うん?」

 忍は言葉を切り、ひどく言い難そうに唇を噛んだ。「……いや、やっぱり気のせいかも」

 花乃は困惑して忍を見上げた。こんなに要領を得ない忍は初めて見る。それだけ彼も混乱しているのかもしれないが、一体何にそれほど驚いているのか、花乃にはわからなかった。

「なに福原くん、はっきりしないわね」

 見かねた千歌が横槍を入れる。忍はうーんと大きく唸ったあと、懸念を振り払うように烈しく首を振って、気の抜けた顔の花乃に向かって笑ってみせた。苦笑に近かった。

「いや――やっぱりいいや。気にしないで、ごめん」

(……?)


 ほら、柔らかくかけられた2度目の魔法。

 あなたの降らせる星が、わたしの心をてらしだす――



 ***



 新しい先生の着任から始まった、学園生活のジャンクション。

 彼の威力はまさにおそるべきものだった。


「拓也様がいた頃がひどく遠い思い出のよう……ああ、思えば短い春でしたわ……」

 窓際に佇んで、秋晴れの空に向かってなよなよと手を差し出す女生徒がひとり。湯浅栞。

 5~9組までの5クラスの成績傾向別にわかれている英語の授業で、花乃は栞と同じ曜日のクラスだった。リスニング・ライティングどちらかに偏ることなく、同配分でバランスよく点数が取れている生徒がどうやらこのクラスに分けられたらしいが、決して知能指数が同レベルというわけではない。現に栞は専属家庭教師を二人もつけているとかいう噂でかなりの好成績をおさめていたが、花乃にとっての英語は勘と運と愛想がすべてのバクチな授業だった。栞はそんな花乃と同じクラスというのが気に食わないようで、授業が終わるたびにいつも必ず一言陰険な厭味を吐き出していたのだが、この日だけは違った。英秋の初授業が終わった日だった。

「まさしく光源氏の君っていうのはああいう方のことを言うのね。優雅な物腰、穏やかな声、なめらかなイントネーション、ウィットに富んだ話術……ああ、こんなところに理想の男性……」

 花乃は黙って、目の前でうっとりとあらぬ方向を見上げて微笑む栞を見ていた。ヘタに突っ込んだり無視したりすれば、折角の上機嫌が水泡と帰すのは目に見える。けれど相手が黙りっぱなしなのも気にくわないのか、栞は不意に花乃を振り返ってずいと顔を寄せた。

「で、あなたはどう思って、関口さん? 脳味噌も天然醸造のあなたにはわからないかしら?」

「え……うーん……たしかにかっこいいセンセイだけど、まだよく……」

 先程の初授業は、一瞬だけの彼の自己紹介と、あとのほとんどは最初の緊張を紛らわすためという名目で上映された「ローマの休日」で終わってしまったので、正直な所花乃には栞ほど陶酔する理由がなかった。馬鹿正直に映画に見入ってしまった花乃を省く女生徒は全員英秋の顔に見入っていたのだが、花乃はそれにすら気づいていないのだった。

「見る目ないわね~、あんな綺麗で若くてついでに丁寧で落ちついた先生なんかそこらに転がってるわけないじゃないの! おまけにあの、笑ったときの可愛さ! 嗚呼、磐城先生……」

 再び陶酔の世界に沈む栞に背を向け、花乃はこそこそとその場を逃げ出した。今日はデパートに新しく入荷された茶葉の品定めにいく予定なので、早く帰りたいのだ。ぱたぱたと廊下を駆けながら、花乃は女子の間で突如巻き起こった旋風に内心驚いていた。

(源氏の君、磐城先生かあ。優しそうだったし、きっとこれからますます人気出るんだろうな)


 だが花乃を驚かせるのは、それだけにはとどまらなかった。

 突然校内女子の間に巻き起こったのが『源氏の君』旋風だとすれば、数日前から校外男子の間に密かに広がっていたのは、『紫の姫君』の波紋だったのである。

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