11:新任教師

 月曜日からついに授業が再開された。今までのお祭ムードはどこへやら、3年教室棟は一気に灰色の受験モードへ切り替わり、登校した花乃はそのあまりの空気の違いに驚いた。

 ペンキや大工道具が散乱していた廊下には、単語帳をもってぶつぶつ呟きながら往復する生徒たちの姿が見うけられ、教室の中でもそれは変わらなかった。どこかぎすぎすし始めた雰囲気に戸惑いながら花乃が席につくと、前の席の千歌が振りかえってあいさつ紛れに苦笑した。

「なんかいきなりがらっと雰囲気変わったよね、この教室。暗くなったと言うか……」

「ホントだね、もうこれから受験シーズンなんだねえ」

「期末考査に向けてっていうのもあるんでしょ。今回純泉祭のおかげで中間考査はなかったし、準備でまともに授業も聞いてなかったから、皆てんてこ舞いなのよ。あたしもなんだけどさー」

 辟易した様子で呟く千歌に同調して、花乃も項垂れた。あらゆる授業中、教科書の影に台本を立てて台詞覚えに没頭していたのは確かだった。おかげで台詞はほぼ問題なく覚えられたが、この一ヶ月分の授業の内容は正直言ってさっぱり思い出せない。このままでは間違いなく二学期の成績は悪夢になる予感がした。――考えたくない……。

 青くなった花乃には気付かず、千歌はカバンから取り出した教科書を机の中に納めながら、忘れないうちにと思っているのか早口で捲し立てた。

「それに今日から英語の先生代わるんでしょう? つまりうちの副担任も変わるってことだ。朝のSHRにも挨拶に来るかも。どんな先生だろうね」

(そういえば福原くんも言ってたっけ、新しい先生……そっか、今日からなんだ。どんな先生なんだろう)


 そしていつもと同じ本鈴が鳴り、集まった生徒たちががたがたと席につく。どちらかといえば教室の左後方にある花乃の席からは過半数の生徒の後ろ姿が目に入るのだが、目に飛び込んでくる光景を改めて見てみれば、教室が暗く見えたわけが判った気がした。いつの間にか、全員が規定の冬服に着替えていたのだ。今までは残暑や作業の関係でシャツやジャージ姿も少なくなかったのだが、全員が一気に黒とグレーのブレザーに衣替えたせいで、空気が重厚に感じられるようになってしまったらしい。そろそろ、本格的な冬の到来も近い。


 がらり、と教室の扉が開いた。

 いつもと同じように、出席簿と配布プリントを小脇に抱えて教壇の前に立ったのは、担任の鈴木だった。若くもなく老いてもいない、いわゆる中年ど真ん中を射止めた年頃の国語教師だが、割合人好きのするとっつき易いタイプの人柄なので、生徒からの評判は上々。今日も、生徒たちは注意される前にしんと静かになり、教師が話し出すのを待っていた。

「おはよう、みんな。文化祭お疲れさま。今日からまた通常授業に戻るけど、もうこの3日ですっかり疲れも取れただろ。これからテストまでいつもの倍速で鍛えるから覚悟しろよ」

 笑い混じりの鈴木の言葉に、生徒たちは息を揃えてブーイングを飛ばす。ここまでは、いつもと変わりない光景だった――静かに、教室の扉が開くまでは。

 すらりと現われる白い影。

 暗かった教室に、急に真昼の光が灯ったように見えた。

「紹介しよう、今日から新しくうちの学校に来た磐城先生だ。担当科目は英語、山口先生の産休代理だからうちのクラスの副担任も受け持ってもらうことになった。どうだ、驚いただろう?」


 ――驚くも何も。

 しんと静まり返った教室。生徒36名の視線を一身に浴びながら、その人は教壇の脇まで歩いてきて、彼らに向き直った。

 集められるだけ集めた視線をうまく受け流すように軽く一礼をして、顔を上げる。綺麗に整えた薄い色の髪が、はらりと額にかかる。

 呆然とその整った顔を眺めていた花乃は、その彼と目があった一瞬で我に返った。まさか目が合うとは思わなかった。そんなに無遠慮に見つめてしまったのだろうか。

 彼はかすかに目を見開き、慌てて目を逸らした花乃を見つめ返したあと、すぐに教室を見渡して口を開いた。

磐城英秋いわきひであきです。今日から英語の授業とこのクラスのSHRを担当することになりました。教壇に立つのは久しぶりなので、何かと不慣れなところもあると思うけれど、おてやわらかによろしく」

 明朗な声でそう言って軽く微笑んだその新任教師は、この瞬間、灰色の受験生活に向きあったばかりの女子の大半をとりこにしてしまったのだった。

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