10:女の子の対策・2

 猛烈に気になって、佳乃はおそるおそる花乃に尋ねた。

「ねえ、福原くんとなに喋ってたの?」

「なにって……来週からのこととか。あ、英語の山口先生が急に産休とって休んじゃったんだって。文化祭でばたばたして全然知らなかったんだけど、来週から新しい先生が来るって福原くんが」

 まったく関係のないことを喋り出す花乃に苦笑しながら、佳乃は首を振った。

「あたし花乃のクラスと英語違うから関係ないよ。そうじゃなくってさ――何か言われたでしょ?」

「え……し、知ってたの」

 花乃の頬がさっと色付いたのを、佳乃は見逃さなかった。少なくとも、姉の顔色がこんなにあからさまに変わることは滅多にないことだ。特に色恋に驚異的に鈍感な花乃は、余程のことがないとそのテの感情を顔に出したりはしない。初恋以来自分の赤面症を自覚した佳乃にとっては、花乃の鉄壁に近い笑顔が羨ましかったのだが、ついにそれが崩されたということは。

(よし、でかした福原くん! やっと言ったのね、ああ長かった……)


「……よく、わかんないの」

 花乃は困ったような顔で佳乃を見上げた。「恋って、ドキドキすることなんでしょう? 福原くんもそう言ってた。じゃあわたし、いまドキドキしてるのって、恋なの? 福原くんがスキってこと?」

 花乃の表情は思いがけず真剣で、佳乃は気圧されてあとずさった。喜ぶとか驚くとかいう次元ではなく、花乃はどうやら恋愛の定義について本気で悩んでいるらしかった。

「へ――いや、それはあたしに聞かれても」

「佳乃ちゃんはどうやって恋だってわかったの?」

「ええと……」

 晩秋だというのに脂汗のようなものがじわりと額に浮かびあがってくる。

 恋愛のれの字も知らなかった花乃にとって佳乃は唯一の師匠で、あらゆる色恋沙汰はすべて佳乃の指南を受けなくては気が済まないらしい。忍の恋は応援したいところだが、今後もことあるごとに根掘り葉掘り問い詰められることを思うと、極度の恥ずかしがりの佳乃にとっては気が気ではない。

「多分、絶対にわかる日がくるよ……あたしも夕子にそう言われた時は全然信じてなかったけど、ホントに急に、ああ好きなんだなあって思うときがあったもん。だから大丈夫だって」

(だからあたしに聞くのはやめて~)

「うー……ホントにわかるのかなあ、わたしにぶいってよく言われるのに、大丈夫かなあ」

 佳乃は不安でたまらない様子の花乃の肩を後ろから両手でぽんぽんと叩いて、大丈夫大丈夫と繰り返しながら、家路を急いだ。思春期も終盤の少女の悩みにしては幾分――いやかなりベクトルのずれた花乃の恋の始まりと、忍のこれからの多大な苦労を思って、佳乃はため息をこぼした。



 高校最後の後夜祭は花乃の思いもかけないかたちで終わり、翌日からは土日ぶっ通しで行なわれた文化祭の振替休日が3日続いた。花乃も佳乃も、この一ヶ月休む間もなく走り回っていた疲れをまとめてとるべく、ほぼインドアで過ごしていた。

 花乃の場合はベッドの中でうたた寝を繰り返したり、いつものようにテレビを見ながら母親とのんびりアフタヌーンティーを楽しんだり、新しく買ったアロマオイルのブレンドをためしてみたりと、ここぞとばかりに遊び呆けていたのだが、どうやら佳乃は違うようだった。

 土曜、アメリカへ旅立つ拓也を見送ったあと、帰って来たリビングで佳乃は宣言したのだ。


「あたし、将来の夢決めたよ。医者になる。いままでやってきたことも、これからやっていくことも全部、そのために費やそうって思ってるんだ。あいつには絶対負けないんだから」

「お医者さん? うわあ、すごいね! でも佳乃ちゃんならなれるよ、絶対」

 花乃が素直に応援すると、佳乃は嬉しそうに笑って頷いた。「ありがと。これからまた予備校とかで遅くなったりするかもだけど、時々は花乃の紅茶、飲ませてね? で、花乃の方はどう?」

 すでに出願を済ませている短大推薦入試のことだということはすぐにわかった。

「まだ、合否は出てないの。来週くらいにはわかるんじゃないかなあ」

「受かってるといいね、花乃なら大丈夫だよ!」

 ぽんと一つ花乃の肩を叩いて、おやすみと言ってから佳乃は自分の部屋へ上がっていった。リビングに取り残された花乃は、飲み終えたコップを濯ぎながら一つため息を零した。

(佳乃ちゃん、強いなあ……すごいなあ……)

 好きな人と離れ離れになったことをものともせず、自分の目標をしっかりと定めてすでに臨戦態勢に入っている。おまけにその目標が好きな人と同じで、目指すはその相手を負かすことだというのだから、ただただ花乃には畏れ入ることしか出来ない。

(わたしならきっと好きな人と離れちゃうの、不安でたまらないと思うのにな。すごいなあ)

 改めて、自分の道を考えさせられる――たとえば、推薦で受けた短大は家政科だけれど、特にこれといってなりたい職業のために選んだ学科ではなかった。何故か誰も花乃が家政科を選ぶのは当然と思っているらしく、理由を聞かれたことはなかったのだけれど、本当は。

(将来の夢……わたし、やっぱり変なのかな)

 小学生の頃のまま、いつまで経っても変わらない、夢。それは、まだ見ぬ誰かの隣によりそって、その人の喜びも辛さも全て分け合える存在になること。安らぎに満ちた場所をととのえて、いつでもその人を迎えられるようにすること。いつかそんな場所を作れるように――その人の役に立てるように、家事も料理もできるようになりたいと思って選んだのが家政科だった。

(だって、ずっと憧れてきたんだもの。そうなれること、信じてもいいよね?)


 ――そう、18才も近い花乃の夢は、ほかでもない。

 正真正銘の、『お嫁さん』なのだった。

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