14:資料室の攻防
王子様からお姫様への、最後の最後の、恋の奇跡
そういうのが、くちびるから解き放たれる魔法だと思っていたの
腕の中の筋が限界をとなえて震えている。心理的圧迫も加わって、花乃はとりあえず抱えた辞書を床上に置こうと腰をかがめたが、曲げた膝の裏側が積み上げられた雑誌に当たって鈍い音を立てた。思わず息を呑んで二人の方を振り返ると、ちょうど少女が英秋から体を離した所だった。
(気付かれなかった……みたい? ……良かった)
勝ち誇った顔で見上げる少女に、英秋は浅く笑みを返した。そして、突然少女の腕を取ったかと思うと、強引に、一度は離れた唇を奪い返した。息を潜めて困惑している花乃にとっては仰天どころの話ではなかったし、それは仕掛けた少女にしてもそうらしかった。酔わせる限度を大きく越えた、ほとんど暴力的とも言えるくちづけに、少女はあわてて両手を張ってその体を押し返した。
花乃から表情は見えないが、英秋は確かに、小さく笑った。
「さて、これで満足かな? 満足したならさっさと授業に戻ってもらいたいね。それとも、もっと楽しませてくれるって?」
「………」
真っ赤な顔をして黙り込む少女から数歩後退り、英秋は資料が煩雑に散らばった机に後ろ手をついて、どこか嘲笑の混じる声音で言った。
「悪いけど、俺は君じゃ楽しめない。乳臭いガキに興味はないんだ――解る?」
少女はえもいわれぬ顔で絶句して英秋を見返していたが、優しげな微笑から放たれた暴言の意味をようやく飲み込んだのか、大きく震える手を握り締めて叫んだ。「ひどい!」
「ひどくて結構。お子様に火遊びは100年早いと思い知れ」
少女は踵を返し、積まれた本が幾つか雪崩を起こすような勢いでドアを叩きつけて出ていった。ばたばたと廊下を駆ける足音がかなり長い間聞こえてきていたが、それもやがて消えた。
「……ったく、近頃のガキは」
ふう、とため息をこぼして、英秋はスーツの内ポケットから煙草を取り出した。クセなのか、風のない密室でも右手で風を防ぐ仕草をしながら火を灯し、そして突然書棚のほうを振り返った。
「そろそろ出て来たらどうだ? まあ、出るに出られない状況になったのは悪かったけど」
「!!」
腰をかがめた妙な格好で固まっていた花乃は、突然の呼びかけに驚いて抱えていた辞書を一気に落っことした。そのうちの数冊は狙いを定めて足の指に尽くヒットし、目の前にちらちらと鮮やかな火花が散る。激痛に思わず天井を仰ぐも、必死の甲斐あって何とか絶叫はまぬがれた。
半泣きでうずくまり両足をさすっていた花乃は、不意に目の前におりた影の帳にはっとした。
英秋が、自分を見下ろして立っていた。
「……ああ、関口花乃か」
細めの眉を歪めて、英秋は紫煙を吐き出した。花乃は混乱と痛みの眩暈にめげそうになりながらも、思わずえっと声を上げていた。何故自分の名前を知っているのか――生徒の名前を覚えるにしても少々早過ぎる。まだ自己紹介と一度の授業でしか面識はないのに。
「君も不運な生徒だな、まさか俺に当たるとは思いもしなかっただろう」
「え……?」
何を言われているのか解らず花乃は間の抜けた顔で英秋を見つめた。彼はもう一度何食わぬ顔で煙草を咥え、書棚にもたれかかって腕を組んだ。ふと花乃を見下ろす顔に翳りが混じった。
「まさか、忘れたのか? ……参ったな」
煙が鼻先をくゆり、花乃は思わず咳込みそうになったが、慌ててそれを飲みこんだ。
煙草の煙は苦手だった。喉の奥が焼けるような、痛みと苦味しか感じない。
「あの、忘れたって、何をですか?」
「何を?」
英秋は何か溜まっていたものを吐き出すかの如く、大きく息をはいた。この人からは、刺々しいいばらのような匂いがすると花乃は思った。さっきの子も、きっと驚いたに違いない。
薄暗い中でも見上げた顔は相変わらず端整で、けれど、何かが冷たい。背筋がぞくりとする。
(なんか、こわい……。もしかして優しくないんじゃないかな、この先生……)
白い煙を吐き出して、英秋は両脇の書棚に肘をかけた。狭い通路に彼が立ちはだかると、それだけで影が闇の色を増す。
完全に逃げ道を塞がれたことに、花乃はまだ気づいていなかった。
「俺も人のことは言えないと自覚しているけど、君も相当なものだな。あの時とはまるで別人だ。ああ、それが噂の演技力ってヤツか。騙されるヤツらに同情するね、さすが『紫の姫君』」
「???」
必死で思いあたるふしを探し出そうとしているのに、まったく見つからない。英秋の言葉はそれこそ外国語と同じで、花乃には何一つ通じなかった。相当なもの、あのとき、別人、演技力、騙される――誰が誰に?
この先生は、何が言いたいのだろう。それさえおぼつかない。
「まあいい……君が全部はぐらかそうとするなら、それで構わない。ただし、それなりの覚悟はしてもらうことになるけどな。それくらいは予想していただろう? 俺が担当になったときから」
何を覚悟しろというのだろう。素直に尋ねたかったが、そうさせない気迫が英秋から感じられた。そこでようやく花乃は気付いた。
微笑の中で、瞳が笑っていない。彼は怒っているのだ。
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