星にねがいを・4

 念の為に保健室を覗いて行くと、花乃は放送で呼び出された両親が車で連れ帰ったあとだった。

 更衣室で着替えていると夕子が片付けにやってきて、拓也が待っていることを伝えたところ、思い出すのも恐ろしいほどの喜びようで追いだしてくれた。

 そうして、二人は初めて一緒に風野丘のプラットホームに降り立った。

 1度目は忍と二人で、2度目は予備校をサボって散歩で、3度目は無意識に彼に会いたいと思い、4度目は、別れの決意とともに――

 そして5度目。佳乃は拓也に手を取られ、そこに立っていた。

 来るたびに見上げる銀杏並木は、この街を訪れるたびに変わる佳乃の心を映し出すようにくるくると色を変え、様子を変えた。ついに散り始めた黄金の葉はレンガの街路を覆い尽し、鮮やかな雪のように二人の上にも降り注ぐ。

 それは待ち焦がれていたはずの瞬間だった。

「まさか、この景色が見られるとは思わなかった……」

「え?」

「初めて来た時、福原くんが言ってたの。喫茶店も景色も、季節によって全然違うものになるらしいって。だからあの銀杏並木を見た時に、絶対秋にこの景色が見たいって思ったんだ……」

 けれど、もう辛くてここには来られないと思っていた。景色を見るたびに、叶わなかった恋のことを思い出すだろう自分が、みじめで許せないと思ったから。

 思えば思うほどに不思議だった――ここにいる自分と、隣に彼のいる現実が。

 拓也は夕日を浴びて眩しいほどに輝く並木を見上げた。

「そういえば、関口さんは知らないんでしたっけ? うちの喫茶店の名前の由来」

「え? ミストレス・リーフでしょう? はっぱ主婦……」

 まさか「苗≒葉」と主婦にかけて苗子さんを意味してるんじゃ、と言った佳乃に、拓也は苦笑を交えて首を振った。「いいえ、ミストレスは主婦という意味だけじゃないでしょう」

 佳乃はぐるぐると英語の単語帳を頭の中でめくった。このところ、文化祭の練習のせいで勉強をサボっていたのが悪かったのか、はっきりいってまったく思い出せない。

「本意としては、ミストレス・オブ・リーブズだそうですよ」

「ええと………葉の……」

 負けるのが癪で考え込んだ佳乃は、視界をよぎったいつもの屋根を見てあっと声を上げた。

 いつもどおり出迎えてくれるはずの喫茶店の赤い小さな屋根は、てっぺんに黄金色の葉を敷き詰めて夕日にきらきらと輝いていた。屋根を伝って二階の窓の庇から入り口の庇、階段、植込みへ伝わり、そして街路一面に広がっていく金色の波。

 小さな喫茶店は、金色の王冠と外套をまとう貴婦人だった。

「ああ! わかった、これのことなのね。ミストレス・リーフ――落葉の女王!」

「ご名答」

 拓也の笑顔を見て、佳乃は不意に尋ねた。「見せたいものって、これ?」

「……以前あなたが、散る頃になったらこの景色を見に来たいと言ってくれた時、僕はあなたにとてもひどいことを言ったから。あなたには絶対にこの景色を見て欲しかったし、もう一度ちゃんと……本当の気持ちを伝えたかったんです」

 輝く葉雪の降る中で、拓也は佳乃に向き直った。

 その思いがけず強い眼差しに思わず佳乃が身構えそうになるのを制するように、彼は突然言った。「待っていてほしいんです」

「……え?」

「エマの事故のことで自分に架していた戒めは解いたけれど、僕は完全に自由になったわけじゃありません。祖父がいるし、父親がいる。彼らはどんなことをしても僕に会社を継がせようとするでしょう。僕は彼らと話し合わなければならない」

 佳乃は混乱し、目を瞬いて叫んだ。「じゃあやっぱり、いいなりになりに行くの!?」

 拓也は佳乃の目を見つめたまま、首を振った。

「いいえ。宣戦布告です。僕は彼らの思いどおりにはならないと、彼らの目の前でそれを示さなければならない。だから僕は行きます――医者になるという、自分の夢をかなえるために」

 佳乃は密かに息を呑んだ。それには気付かず、拓也は珍しく緊張した様子で繰り返した。

「だから……待っていてほしいんです、あなたに」


(これって)

 さすがに鈍い佳乃にも、この眼差しに直面して「何を待つの?」などと間抜けな質問をする勇気はなかった。

 彼が真剣なのは痛いほどによく伝わってきて、嬉しいことには変わりがないのだけれど、ここにきて佳乃は自分の気性を改めて思い出した。――天邪鬼、負けず嫌い。

 彼の願いに答えてしまえば、自分だけが縛られるような気がする。

 それはとても悔しくて、気付いた時佳乃は叫んでいた。

「待たない! なんであたしがあんたを待たなきゃいけないの、待つのはあんたよ!」

「……は?」

「あたしはエマさんと約束したんだから、世界一の医者になるって! だからあんたには絶対負けない。みてらっしゃい、あたしを本気にさせたあんたが悪いんだからね!」

 気の抜けた顔でぽかんと佳乃を見下ろしていた拓也は、糸が切れたように突然吹き出した。笑いながら、拓也も佳乃の宣戦布告に答えた。

「いいですよ、受けて立ちましょう。僕を本気にさせた、あなたが悪いんですから」

 気丈にその相手を睨みつけていた佳乃もついに笑みをこぼし、拓也の胸に頭を預けて笑い続けた。その髪に唇を落とし、次いで額に、そしてくすぐったそうに顔を上げた佳乃の頬にもう一度。

「秀才のくせに、どこでこういうの覚えるの」

「そんな答えようのない質問をされても」

「いつだっていきなりで、心の準備なんかできたためしないんだから」

「……じゃあ、いいですか? 心の準備は」

 頬に暖かい手が触れて、しまったと思ったときにはもう遅かった。


(やっぱりほら、あなたにはかなわない)

 お互いが心の中では両手を上げて降参しているにもかかわらず。

 負けず嫌いの二人の闘いは、舞い散る銀杏の中、二度目のキスで火蓋が切られたのだった。

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