星にねがいを・3
知らなかったその花の名前をおしえてくれたのは、あなた
きらいだったその花をあたしに与えてくれたのは、あなた
そして、たくさんのいとおしいという想いを抱いて
それはやがて巡る季節に、変わらず花を咲かせるのでしょう
その言葉は、奇跡だった。
堰を切った涙が一気に溢れてきて、訳もなく佳乃は泣いた。
佳乃が落ちつくまで、拓也はじっとそのまま立っていた。わんわんと泣き喚く佳乃を抱きしめたまま、そのいつもと違う長い髪を撫で、背中を軽く叩く。
小さな子供にするようにあやされて、佳乃はやがて落ち着きを取り戻した。だが、それと同時に不意に忘れていた恐怖が蘇ってくる。顔を上げたら、この手を離したら、彼は煙になって消えてしまうのではないのだろうか――?
突然わきあがってきた恐怖に理性は突き飛ばされ、佳乃は叫んでいた。
「い……いかないで、いっちゃだめ!」
どうして今更こんな言葉がこの口から出てくるのだろう。自分を恥じながらも、こらえられない恐れに必死で立ち向かうように佳乃は繰り返した。「もう会えないのはいやだ……!」
「関口さん、大丈夫です」
ぽんぽんと軽く頭をなで、拓也は佳乃の耳元でささやいた。
「僕は今、ここにいます」
(ここにいる……)
しがみついた胸から、ほのかな熱と鼓動が伝わってくる。夢でも幻でもないというその証拠は、彼の鼓動の速さ。彼もまた佳乃と同じ気持ちを共有しているのだと思うと何故だか幸せだった。
ようやく佳乃は伏せていた顔を上げ、久しぶりに拓也の顔をまっすぐにみつめた。今まで見る中で一番穏やかに微笑む、眼鏡越しの瞳。それを見て、佳乃が解放されたのと同じように、彼もまた解放されたのだと思った……すべてのしがらみから。
だが拓也と目が合ったその瞬間、佳乃の口から出た言葉といえば。
「――なんでアンタがここにいるの?」
「……え」
「ちょっと待って、何でアンタがここにいるの!? ひ、飛行機は!? エマさんはっ!?」
我に返ったあとの佳乃の意識は一気にそちらに傾いた。当初はあまりに大きな驚きと感動が心の中を占拠して疑問の入り込む余地などなかったのだが、一旦その根本的な謎に気付いてしまえば、ムードだのロマンスだのに気を配るような器用な真似はできるはずもなかった。
目の前の拓也は薄手のジャケットをはおった外出着だったが、海外には必須の大きなトランクや荷物はなく――ただ、足元に小さな紙袋がぽつんと置かれているだけで。
「ど、どういうことなの。だって、あんた行かなきゃいけな――」
拓也は佳乃を放してその紙袋を拾い上げ、中から布に包まれた小さな包みを取り出した。
「……エマから、預かってきました。関口さんへ」
「あたしに?」
薔薇模様のハンカチに包まれたそれは、触るとかたんと音を立てた。
何を尋ねるのももどかしく、震える手で無心に包みを解くと、その中から現れたのは見覚えのある木の箱だった。
(エマさんのオルゴール!)
この箱から流れる曲には、彼女が現れてからのミストレスリーフの思い出が詰まっている。佳乃にとって――そして彼女にとっても幸せな思い出ばかりではないけれど、そのときには必ずこの曲が流れていた。
箱を開ける。溢れ出す旋律。祈りが、空に融ける――。
星に願いを託すとき あなたが誰でも構わない
あなたが何を望んでも 夢はきっと叶うでしょう
あなたの心が夢見るとき 望みは数限りなく
星に願いを託すとき あなたは夢を見るように
運命はやさしく 愛し合う人々の密やかな願いを きっと満たしてくれる
青天の霹靂のように突然 夢はあなたのもとへやってくる
星に願いを託すとき 夢はきっと かなうでしょう……
あきらめない――信じれば、願えば、夢は何もかもかなう。
それはエマが今まで抱えてきた傷への、そして拓也への想いの中の、唯一の勇気と希望。
「空港に向かうタクシーを止めて、エマが最後のワガママを聞いてくれと言ったんです。とても大切なことだから、今すぐこれを関口さんに届けてくれと……。あの体のエマを一人にするなんてできないと言ったら、エマは笑った」
“ワタシ、もうタクヤの荷物じゃないわ。生きるためにヨシノと一緒に頑張るって決めたもの”
「贖罪の必要などないと……けれど、もし過去のことを気に病んでいるのなら、この最後のワガママを叶えてほしいと。そう言って託されました」
“今まで甘えて縛り付けて、ごめんね、タクヤ。でも、ワタシはもう大丈夫だから。タクヤには自分の道を進んでほしいの。まっすぐに――ヨシノと同じ道を”
呆然と立ち尽くして静かな旋律を聞いていた佳乃は、ふと開けた中敷の下に小さな白い紙切れを見つけた。触った時、その折り曲げられた紙の下にまだ何かあるような感触がした。
白い紙を取り上げて、佳乃は息を呑んだ。
「これ……どうして」
数奇な運命を繰り返した挙句、嵐の中に投げ捨てられた、小さな薄紅色のお守り。
それが星へのねがいとともにそこにあった。
拓也も驚いたように息をのみ、小さな声で呟いた。
「僕も知りませんでした……。まさかエマは、飛び出したあの雨の中でそれを見つけて、今まで」
「そんな」
慌てて開いた紙切れには、そのお守りの謎を解くかぎは一つもなかった。
ただ流れるような筆記体で一言、書かれていたのは――
“HappyBirthday,Takuya.”
「ハッピーバースデー?」
拓也は紙切れを唖然とした顔で眺めていたが、訝しげに見上げてくる佳乃に気付いて笑った。
「ああ……どうも今日は僕の誕生日のようです。思い出す暇もなかったんですが……そう言えば朝にエマがそんなことを言っていたような気が」
「へっ?」
仰天続きで、佳乃にはもう何を驚いていいのか解らなくなっていた。
エマは最初からこのつもりだったのか。
あの日佳乃の耳元でささやいた「素敵なプレゼント」として用意されたものは。
オルゴールに託された『夢と希望』、お守りに託された『恋』――そして。
「関口さん」
彼の差し出す手。
「帰りましょう、うちへ。見せたいものがあるんです」
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