星にねがいを・2
「良かったよ、花乃!」
「すっごい演技うまいんだね関口さん。普段ぽやぽやしてるから意外だったなあ」
廊下にたむろする見知らぬ同級生たちが、次々と声をかけてくる。そのたびに佳乃は立ち止まり、微笑みと感謝の言葉を交わしてから、また重い裳裾をからげて歩かなければならなかった。
(舞台でこぼしたあれはあたしの涙じゃない、紫の涙なんだ。あたしはまだ泣けない。この衣装を脱ぐまでは、あたしは、花乃なんだから)
そう強く思う反面、胸に詰まったものは果てしなく膨らんで、手に負えなくなってきた。
この溢れ出そうとする感情の正体は、哀しみなのか悔しさなのか、未練なのか――
「どこまで無茶する気だ」
「え?」
物思いに耽っていた佳乃は、突然目の前に降ってきた影と間近で響いた声に驚いて顔を上げた。
その瞬間いきなり足元を払われ、身体ががくりと後ろ向きに倒れるのが解った。身体の状況は一応解っているのだが、自分に一体何がおこっているのかは全くもって把握できなかった。
床に打ちつけられると思った背中は、宙に浮いた脚ともども痛みを感じることはなかった。呆然と見上げる佳乃の目には、見覚えのある男の顔が妙な角度で映っていた。
(さ――さっきの、スーツ男……!)
嫌悪感とともに正気を取り戻した佳乃は、ようやく自分の状況を把握して仰天した。
見知らぬ男にまるで人形のように横抱きにされて運ばれている。
相手の都合など考える余地もなかった。この状態がそのすべてで、それ以上でもそれ以下でもない、要するに非常事態に他ならないと佳乃は認識したのだった。
もし不意をつかれなければ、頭の回転が早い佳乃はすぐに相手の思惑に気付いたに違いないのだが、幸か不幸かこの時の思考回路はほぼ止まりかけていたのだ。
したがって、佳乃は本能の赴くままに行動した。
「なにすんのよ、この変態――っ!」
胸のすくような快音とともに、佳乃の拳骨は見事にその端整な顎のラインにヒットした。同時に自由になった身体を何とか床の上に着地させた佳乃は、顎をおさえて壁にもたれかかった男を睨みつけた。殴った手の方が骨が折れるんじゃないかと思うくらい痛くて涙がでそうだった。
「このクソちび、いきなり何しやがる!」
「うるさいっ、あたしに何する気だったのよ変態! さっさとここから出て行きなさいよっ、さもないと大声出して先生呼んでやるから!」
動転していた佳乃は必死の形相で叫んだものの、さすがにそれ以上二人きりで向き合っている勇気はなく、踵を返して全速力で逃げ出した。
もう、とにかく一人になりたいと思った。
まさかこれが、今後花乃の恋に強烈な影響を与える事件になろうことなど、知るよしもなく。
(はっ!)
混乱の極地にあった佳乃がその予想に辿りついたのは、屋上への階段を上っている時だった。さすがにあんな輩に出会った直後に一人で着替える勇気はなく、ぞろぞろと長い裾を引いたまま気がつけばここまできていた。腹立ち紛れに先ほどのことを思い出していた佳乃は、ようやくその考えに到ったのだ。
双子であるということを、彼が知らないという事実に。
(……さっきの男、あたしと花乃を間違えたんだ。だから保健室に連れ戻そうとして)
しまった、と思ったがもうあとのまつりだった。おそらくもう二度と会うことはないだろう通りすがりの男で、間違いなく相手ももうこの顔は見たくもないはずだ。そう思った佳乃は、謝るために戻ることを軽々と諦めて屋上への階段を上った。申し訳ないとは思うけれど、ただ今は自分の心に忠実に、独りになりたかった――解放される瞬間を待ち望んでいたから。
屋上の扉を開けると、強い風が顔をなぶった。
かつらからほつれた長い髪が顔にかかって前が見えない。それをまだかすかに痛む手で払い、佳乃は空を見上げた。
茜色の滲むグラデーションを、ひとすじの白い雲がななめに横切って、霞んで消えてゆく。――飛行機雲だった。
(自分に何ができるから、とかじゃないんだ……)
何もできないから、止めることはできないから。
行っても何も変わらないから行かない、そう言ったけれど。
わからなかった紫の気持ちが、あの独白になって体中にしみ込んでくる。人を思う気持ちのみなもとには、理屈や理由や、そんな形に縛られるものなんか、通じないところがあると。
ただ、あいたくて、うしないたくなくて。
他に何もできないぶん、気持ちだけが止め処なく溢れて。
ただ好きなんだと気付かされることしかできない。
“あえなくなってから後悔したって、遅いんだよ、佳乃ちゃん”
「もう、いいかなあ、花乃」
扉を開け放したまま、手すりのところまで歩いてきて、佳乃は空を仰いだ。
「最初で最後になるように頑張るから、いまだけゆるしてね、エマさん」
あいつを想って、泣くことを。
(言葉なんかなくたってよかった、最後にひとめだけ会いたかった……!)
重ねて鍵をかけてきた色々な思い出が、解放を迎えたこの瞬間に次から次へとまぶたの裏によみがえってきて止まらなかった。両手で顔を覆っても、こぼれる涙と嗚咽は言うことを聞かない。最初は大嫌いだったはずなのに、いつのまにこんなに大きな気持ちになってしまったのだろう。
いつもの表情や、ふとしたときに見せる微笑みや、自分を呼ぶ声や――
関口さん
ああ、そう、この声だ。痛いほどに思い出せる。
「――関口さん」
……?
涙が止まった。まさか、と思った。
どこかがおかしくなってしまったのかもしれないと、本気で考えながら振り返った。
佳乃の顔を見て、彼はもう一度呼んだ。返事がないので不安になったのか、今度は少し口調を変えて、ささやくように。
「関口さん……佳乃、さん、ですよね?」
どうして
そこから先は言葉にもならなかったし、予想を巡らせることもできなかった。
佳乃はただ、無我夢中で走って、その胸に飛びこんだ。触れたら消える夢かもしれないと思ったけれど、それならそれで良かった。ずっと思い描いていた姿が、そこにあるだけで。
彼は、長い髪を振り乱してひどい勢いで飛びこんできた佳乃を受け止めた。
血のかよう暖かい体、そして耳もとでささやく声――幻でもなんでもなく、彼は拓也だった。
「あなたが好きです、関口さん」
――それは、行き場をなくしたはずの、最後の告白だった。
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