ツインズジャンクション・3
出会いと別れはいっぺんにやってくるものだなんて、
このときのわたしたちは、まだ、知らなかった。
「花乃っ!」
「花乃ちゃん!? 大変だ、オレ、先生呼んでくるから――」
忍が自分の方に向かって駆け出してきたことで佳乃は動転し、手にしていたカバンを取り落とした。おろおろと働かない頭を抱えてとにかく花乃の方へ駆け寄ろうとした佳乃は、いきなり横からぬっと現れた大きな陰に再び度肝を抜かれて立ち止まった。
高校生、ではない。その証拠に、さっぱりしたスーツに身を包んだその男は、倒れた花乃をすくいあげるようにして両手に抱えると、手近にいた女生徒に抑揚のない声で一言尋ねた。「保健室は」
「あ、あ――あっちです」
忍と佳乃が慌てて駆け寄り案内を買って出た。
男は着物を着こんで重いはずの花乃を軽々と抱え上げたまま、その顔を覗きこんで一言、「無茶するがきだな」と言った。
(何コイツ、口悪い……)
普段不必要に敬語ばかり聞いているせいか、この男の言い草がむしょうに佳乃の癇に障った。倒れた花乃に対してむちゃするガキとは何たる暴言だろう、花乃がどれほど今まで頑張っていたか知りもしないくせに。
佳乃は挑戦の意味を込めて男を睨みつけたが、相手は佳乃など眼中にない顔をして黙々と歩いていた。
「………」
悔しいが、佳乃から見てもこの不躾極まりない男の顔は非常によろしいような気がする。背が見上げるほど高いせいで仰いだ状態からしか判別できないが、切れ長の涼しい目元や流れるような鼻筋などを見れば、恐らく女の子の大多数がよろめくようなタイプの男かもしれないと思った。
どうして失礼な男に限って美男なのだろうと佳乃が少々外れた事を考えているうちに、男は保健室のベッドに花乃を下ろし、振り返りざま佳乃と忍に無茶をさせるなと言い置いてからさっさと行ってしまった。
「なんだアレ……。あっ、それより花乃は!?」
花乃を看ていた校医は、額に手を当ててすぐに困ったような安心したような顔で笑った。
「少し熱があるみたいね、風邪じゃないかしら。疲れと寝不足がたまっていたんじゃない? 大した事はないとは思うけど、今起こすのは無理ね、休ませてあげないと治るものも治らないわ」
「そんなこと言ったって、これから舞台が……」
忍と佳乃、そして様子を見にきたキャストたちは蒼白になって黙り込んだ。
残すのは一日目最後のシーン、「須磨の別れ」。源氏を見送る紫の哀しみを語る独壇場で、幕が下される。花乃もここを演じることを本当に誇りに思っていた、絶対に欠かせない見せ場だった。
時計の針の音が、妙にうるさく耳に響く。
無造作にめくった袖から、腕時計が顔を出した。16時前を主張する。
(もう行かないと、間に合わない……)
どれだけ急いでタクシーで飛ばしても、空港まではここから1時間はかかる。これ以上遅らせられない。それは舞台も同じだった。16時に、残る須磨の幕が開く。
佳乃は沈黙のなかで目を閉じた。学年全員の心の視線を感じていた。
そして、眠る花乃を見下ろした。頬を紅潮させ浅い息を繰り返すその姿に重なるものがあった。
雨の中にくずおれたエマ。放ってはおけない、誰も。
彼はエマのために行くのだ。
ならばあたしは、花乃のために行こう――舞台へ。
「あたしがやる。衣装と台本を」
大きなトランクをひいてフロアに降りると、苗子がぽつんと立っていた。
「エマは?」
「先に……タクシーに乗ってるわ」
そうですか、と答えて彼は自然を装ってフロアを見渡した。
まだ一年も経たないけれど、ここには随分と長くいたような、懐かしい匂いがした。カウンターに立つ苗子のわきで見よう見真似で始めた料理も、半年のうちに思いもよらず上達してしまった気がする。とんだ思い上がりだと、母親は笑うかもしれないけれど――
苗子は泣いていた。
「ごめんね、拓也。あんたの自由を守れなくて。ひとりで行かせてしまうなんて」
「別に単身留学とか言うわけじゃないんですから心配しなくても大丈夫ですよ」
彼が笑うと、苗子は憤慨したようにかぶりをふった。「あんたが自分の夢を追って単身留学とかするなら、私は何の心配もしないわよ! そんなものより今の方がよほど独りじゃないの……」
気の強い母親が、自分にだけは見せようとしなかった涙を目の前で流し続ける姿は、息子にとっては少なからずショックなことだったが、彼はハンカチで母親の涙を拭いながら微笑んだ。
「大丈夫、また連絡します。だから泣かないで下さい、母さん」
「佳乃ちゃんになんて言えばいいのよ。あの子、どんなに寂しいか」
拓也は泣き濡れた母親から目を逸らし、窓際のテーブルを見つめた。彼女が初めて来た日に座った席、そして突然別れを告げた日もたしかあの席のそばだった。
まなうらにまたたく。ひかりさす、茜色の横顔。
“あたしは大丈夫 ……もう泣いたりしないから”
「彼女は大丈夫です」
それだけを言って、彼はトランクを手にドアを開けた。きっともうしばらく耳にする事はないドアのベルを風に遊ばせながらもう一度振り返り、母親と、その向こうのカウンターの端を見つめた。
「元気で、母さん」
一人で来た日、落ちつくと言って座ったあの席。あの姿。
今も残る鮮やかな面影、よく通る明るい声も、柔らかな熱もすべて
ここに置いていく。
「さようなら、関口さん」
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