須磨の別れ

「本気なの、佳乃!」

「話しかけないで」

 衣装班と出番のないキャストを総動員して、たった一人の着つけや化粧を一気にこなすその渦の中心で、台風の目の佳乃は一人やけに落ちついた風情で台本と睨み合っていた。

 先ほどからわきで夕子が何やらごちゃごちゃと口を挟んでくるが、今はそんなものに耳を貸す余裕はなかった。

 花乃の練習につきあったおかげで須磨の台詞は思ったよりも頭に入っていたが、完璧にはほど遠い。今しか出来うる限りの台詞を詰め込む時間はなかった。

「これが最後になるかもしれないのよ、なのに行かないって言うの?」

「あたしが行ったからって、何も変わらないでしょ」

 彼は絶対に自分の思いを曲げない――曲げられない。

「行っても仕方ないなら、あたしは自分で変えられる方を選ぶわ。成功は難しいかもしれないけど、少なくともあたしが出ればこの舞台は壊れずにすむ。3年全員の思い出がかかってるのよ」

「そんな、みんなの思い出なんか考える子じゃなかったじゃないの、あんた! こんな肝心なときに、自分の一生の思い出を捨ててまで――」

 開演前の放送がスピーカーから聞こえ、佳乃は夕子を振り切って立ち上がった。

「ホントにね。あたしいつからこんな、仲間思いになっちゃったんだろう」

 シニカルな笑みを湛えて、佳乃は控え室を出た。体育館の裏口に向かう佳乃に、次々に声がかけられる。誰も彼もが、笑顔で迎え、送り出してくれる。

「頑張ってね、花乃ちゃん!」

「さっきは綺麗だったよ、最後まで見てるからねっ」

「応援してるからな、関口さん」

「花乃ちゃん、のこりちょっとだから、頑張れよ! とちるなよ!」

 佳乃はできる限りの柔らかな微笑みでそれに答え、舞台裏へ入った。


 そうだ、誰にも気付かれないくらいでいい。あたしは花乃だ。

 そして今から演じるのは、紫の上。

 ただひとりの大切な人と別れ、絶望と希望の交錯する思いを抱いて見送る少女。

(……あれ)

 ひどく、胸が痛い。

(いまなら、あたしにも、演れる気がする)

 誰よりも、解る気がする。――彼女はあたしだ。


 そして、16時、一日目最後の幕は開いた。




 突然訪れる別れに動揺し、言葉を失う紫。

 (ばかじゃないの)

 最後の夜、源氏の腕に抱かれながら、涙をながす。

 (……言わないから)

 そして翌朝、ささやかに出立する源氏を華々しく見送ることもできず、たった一人、館で泣くのだ。

 (……言わないでね……)


「これが、今生の別れでないと誰が言えるでしょう」

 張り上げた声は、講堂の静寂に吸いこまれていく。

 沈黙に響く自分の声が、おかしなほどに痛い。

 最初は耳を叩いて痛いのかと思ったけれど、違う。

 ……痛いのは。

「こんなに突然に訪れるものなんて、誰が想像できたでしょう。あの方は私のすべてでした。全てを失った私の、父で、兄で、そして大切な愛する夫でした……」

 たったひとりだった紫の、唯一の絆。

「私の世界が、闇に閉ざされるようでした。明るくはなやかな屋敷の中にも、光のかけらさえ見出すことはできませんでした」

 まばゆいまでの光を浴びているはずなのに、ひどくくらいのだ。

 足元に広がる濃い影が、まるでこの世界のすべてみたいに見える――――

「ただ、思うのは」

「どうか無事で、早く帰ってきて」


 涙が、

 頬を滑り落ちるのが解った。


「きっとどれだけ離れても、時が経っても」

「わたくしがあなたを思わない日はないでしょう」


「声が聞きたい、あなたの顔が見たい」

「どうか」


 ああ、そうだ


「もう一度、あなたにあえますように」


 あたしは


「私は、いつまでも、あなたを待っています――」




 怒涛のような拍手を聞きながら、閉じゆく幕の奥で、佳乃は思った。

 たったそれだけでよかったのだと。

(あたし、会いたかったんだ……最後に、ひとめだけ……アイツに)


 もう二度と言えない、それを心に閉じ込めたまま、

 11月3日は17時を迎えた。

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