いのちの薔薇・1

 文化祭まで、

 そして、最後の日まであと一週間。


 およそ一ヶ月の強行スケジュールだったにもかかわらず、佳乃と花乃を含むキャスト、そして裏方と呼ばれる道具係や衣装班、それらをまとめる実行委員たちは、わずかな休み時間と放課後、ときには早朝までをも費やして文化祭の準備に励んだ。

 遅れて参加し、最初は慣れない演技に四苦八苦していた佳乃も、何度も繰り返しながら他のキャストと息を合わせるうちに徐々に雰囲気を掴んでいった。

 もともと鍛え上げられていた記憶力のおかげでセリフは一週間を残す今でも完璧で、花乃の練習につきあった場所は花乃のセリフもほぼ覚えこんでいた。

 そして花乃はと言えば、佳乃が驚くほどの集中力で人一倍練習に励み、ときどきセリフ覚えの危うさを残すものの、その演技力は演劇部員の源氏役も一目置くほどのものになっていた。人は意外な特技をもっているものなのだと忍が言っていた言葉を思い出し、佳乃は目からうろこが落ちるような気分だった。そんな花乃と佳乃に敵意を剥き出しにした栞が時々突っかかってくる以外は、万事順調にことは進んでいると言えた――個人的な水面下の感情を除けば。


 土曜。ついに始まった通しの練習で出番のなかった佳乃は、花乃の練習の様子を少しだけ見学した後、一足先に学校を出た。

 校門の横には早々と横断幕や大きな看板が伏せて置かれていて、早く早くと出番を待つかのように風に揺られている。

 校内に高ぶる興奮と爆発する直前の熱っぽい空気にけだるさを覚えていた佳乃は、駅までの道を久しぶりに時間をかけて歩くことにした。

 随分と冷え込んできた外の空気が、今はこの目を醒ましてくれるようでありがたかった。

 何一つ余計なことを考える間もないような日々が続いていたけれど、それもそろそろ限界かもしれないと思う。

(疲れがたまったのかな……やあね、何か年取ったみたいで)

 それもあと少しで終わる。こんな多忙な日々もいい思い出に変わる日が来る。無茶をしてまで考えないようにしていたことがあったということも、きっと、ただの思い出になる日が来る。そう思って頭を振った佳乃は、その刹那に感覚器をかすめた鮮烈な印象に息を止めた。

 覚えている、これは香り――花の――バラの。エマさんの――

(まさか)

 体を縦に走った緊張に打ち震えた佳乃が振り返った先には、小さな花屋があった。

 アーケードの下を埋め尽くす色とりどりの花々の中で、ひときわ鮮やかに誇り高く咲くそれに、佳乃はしばらく目を奪われたまま立ち尽くした。

(ああ、ちがう……バラの花だ。なんて綺麗な真紅)

 この数多の花の中で異色の存在感を放つのは、あまりに深い芳香のせいかもしれない。佳乃は知らずのうちにそのバラを手に取り、甘く強い匂いに酔いながらエマを思っていた。心に固く閉ざしていたはずのふたは、このときにいっぺんに吹き飛んでしまった。

(もうあたしには何を謝ることもできない……でも、せめてあなたの無事だけは祈らせてほしい。どうかそれだけは許して、エマさん)


 バラとカスミソウの小さな花束を持って、佳乃は馴染みのある街路を歩いていた。

 二度と来る事はないだろうと思っていた銀杏並木は随分と黄色く色付き、気の早い先駆けの葉がちらちらと目の前を横切って舞っていく。もう冬が来るような季節なんだと、このとき初めて実感を伴った感慨が佳乃の胸に訪れた。

(景色が変わっていくみたいに、人も環境も変わっていく……)

 この葉が散り始める頃には文化祭が始まり、散り終わった頃にはもうここに来るような理由もなくなり、枝に雪が積もるような頃には佳乃はどこかの大学を受験して、青葉の芽吹く春にはそこに通っているのだと。

 簡単に想像できる、未来とも呼べないような近すぎる日のことなのに、佳乃はそれが恐ろしいほどに自分からかけ離れた場所にあるものとしか思えなかった。

 文化祭も、受験の不安も、喜びも哀しみも、卒業式も――分け合う人は沢山いるはずなのに、ひどく空虚だった。

 たったひとりがいなくなるだけなのに、全てが色をなくして見える……

 見上げた先に、赤い屋根。離れた場所からしばらくその小さな喫茶店をぼうっと眺めていた佳乃は、人が出てくる気配のないことを確認してから少しずつ近づいた。

 赤い屋根の上で小さく揺れる風見鶏、いつも微かに鳴いている木の看板とドアのベル、三段だけの小さな階段、緑濃い前栽の匂い、広い窓の奥に広がるセピアの風景。

 思い出と今見ている世界を交錯させながら、佳乃は「ミストレス・リーフ」の前に立っていた。きっと最後の見納めになるであろうこの景色を、できる限り鮮明に覚えておきたいと思いながら。


 ざあっと大きく騒いだ風の音で佳乃はようやく身動きし、手にしていた花束を玄関の前にそっと置いた。

 この花束を彼女が目にすることがあるかどうかはわからなかったけれど、そうせずにはいられなかった。

 贖罪のつもりなどではなく、ただこのバラは彼女のためにある花だと思ったし、これを見て綺麗だと感じてほしいと思ったから買ったのだと佳乃が自分に言い聞かせて顔を上げた時、黄色いイチョウに混じって目も醒めるような血赤が視界に灯った。

 佳乃のまわりに、ひらひらと降ってくる紅い花びら――薔薇だ。

 はっとして思わず見上げた空は真っ青だった。そして対照的な赤い屋根のすぐ下、二階の窓から佳乃を見下ろしているのは、他でもない彼女が無事を祈ってやまない少女だった。


(エマ、さん……!)


 少女は白い手をひらひらと風に泳がせるようにして、佳乃を呼んだ。

 微かに唇が動いているのは見うけられるが、その声は届かない。

 佳乃が固まって立ち竦んでいると、エマは精一杯身を乗り出す仕草をした。それがまた見るからに危うく、佳乃は慌てて叫んだ。「やめて、エマさん!」

 逆光に翳るエマの顔はいつにも増して白く儚く、ようやくその口から搾り出された可憐な声も、聞こえるか聞こえないかというほどのものだった。

 どこか必死の形相で彼女は言った。

「ヨシノ、来て……大丈夫、ワタシ一人、ナエコもタクヤもいないから」

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