いのちの薔薇・2
玄関にはクローズドのプレートが下がったままだったが、扉は押すとすぐに開いた。
佳乃は隙間から中を覗き込み、誰もいないことを確認してから滑り込んだ。
ドアベルが小さく鳴ったが、誰が出てくる気配もない。
花束を小脇に抱え直して、佳乃はカウンター奥の扉の前でしばらく躊躇したが、覚悟を決めて上がりこんだ。あとはすぐだった。
決して別れを言わない『別れ』を交わしたドアに触れる。軽くノックをしてそれを開く。
エマは、ベッドから半身を起こした状態で佳乃を迎えた。
「ごめんなさい、変な呼び方をしちゃって……あまり声が出ないの」
エマは小さな声で笑いながら花瓶の花を指差した。薔薇の一本が、花弁を全部失って茎とがくだけの寒々しい姿になっており、その花弁のうちの一枚は今も佳乃の髪に絡みついていた。
「ねえ、その花束、もらってもイイの? きれいなバラね……大好きなの」
立ち尽くしていた佳乃はその言葉に慌てて持っていた花束をエマに差し出した。
いい香り、とその花束に顔をうずめたエマは、悲しげな瞳だけを花の中から覗かせて穏やかに微笑んだ。
「どうしてかな。薔薇って、ワタシの敵みたいなものなのに、嫌いになれないの。いつだって綺麗で甘くて強くて、そんな花が似合う人になりたいって、ずっと思ってた」
エマに生涯の傷を与えたオベリスク――それは薔薇を支えるためのもの。そう聞いたことを思い出した佳乃は、はっとしてエマを見た。
エマは目を閉じていた。
「エマさんはいつだって薔薇みたいだよ。最初に会った時からずっとあたしにはそう見えたわ」
「ありがとう……ごめんね、ヨシノ……」
薄く開かれるエマの黒い瞳に、澄んで輝くものが浮かびあがった。
「ワタシ、タクヤの気持ちもヨシノの気持ちも知ってる。二人が大切に思い合ってることも、タクヤが本当はここを離れたくない、ことも……」
「エマさん、それは」
佳乃は身震いした。いま、彼女に言わせてはならないことを言わせようとしている。彼女が気付いていたとしても、それを絶対に肯定してはいけない――それだけは。
「ワタシ、タクヤの所に来ちゃいけなかった……わかってるの」
「エマさん!」
どんな絶望の淵で彼女がそう言ったのか、佳乃には想像もできない。だからこそ露わにされる感情をおそれ、哀しく思った。
エマはゆるく首を振り、ゆったりと肩の上にかかった黒髪を払う。
彼女の目から、初めて見る涙が零れ落ちた。
「それでもワタシ、タクヤを連れていく。ごめんね、ごめんね、ヨシノ――これが、ワタシの最後のワガママだから。きっと彼はすぐに自由になるから、それまで、我慢して……」
「――?」
呆然と絶句する佳乃に、エマは微笑んだ。
「ワタシ、子供の時からずっとタクヤが好きだった。あの事故で、自分がタクヤを困らせる重荷にしかなれないって判っても、それでも一緒にいたかったの。一人が怖かったの……独りで……独りぼっちで逝くのが、こわかったの……」
佳乃は身動きも出来ず、その言葉の衝撃にしばらく全力で耐えようとした。
けれど、だめだった。
「最期だけは……タクヤに看取られたいの」
その言葉を聞いたとき、佳乃の胸に今まで知らなかったものが芽生えた。
急速に膨らんで、大きな風船のようにどんどん膨らんで膨らんで、ついにそれが破裂したとき、佳乃は我知らず叫んでいた。
「そんな簡単に諦めないでよ!」
佳乃の視界は極限まで歪んで、端整なエマの顔もよく見えないくらいに揺れていた。熱い涙になってわきあがってきたそれは、堰を切ったようにとめどもなくぼろぼろと零れ落ちていく。
「そんな簡単に、そんなこと、言わないでよ――なんでそんなに簡単に受け入れるの。あたし、エマさんの痛みも哀しみも絶対にわからないけど、でも、だからってそんなのひどい。そんなの、誰も喜ばないよ! もっと生きたいって思わないの!」
エマは言葉を失って呆然と佳乃を見ていたが、その瞳からは乾きかけていた涙が佳乃のそれにつられるようにして流れ落ちた。一つ嗚咽をこぼしたあと、初めて見る表情で彼女は喚いた。
「なんで、何もかも恵まれたヨシノにそんなこといわれなきゃいけないの。どうして潔いふりさえしちゃいけないの。そんなの――」
「生きたいに決まってるじゃないの……!!」
生きたい。
人は、死ぬためではなくて、生きるために、そこに在るのだから。
大声を出すことができず、うめくようにしてベッドの上に蹲ったエマに触れる。
微かに震える細くて冷たい肩を抱きしめて、佳乃は揺るぎない決意を掴んだ。
生涯をかけるだけの目標を。ともに追いかける、闘っていくべきものを。
「――あたしがエマさんを助ける。あたし、医者になって、エマさんの体を治してみせる」
どうしても守りたいもの。自分の力を全て注いでも成し遂げたいもの。
生命という名を持つものが、この世界にはあるのだと。
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