堕天・2

 どれほどの時間か、寒さに震えながらも動く気になれずじっとカウンターに座っていた佳乃の耳に、風の唸りでも雨の打音でもないものが響いた。

 はっとして振りかえった佳乃は、買い物袋を手にしたまま佳乃を凝視して立ち尽くす苗子を見つけた。

「まあ……佳乃ちゃん? 一体、どうしたのその格好。拓也は?」

「苗子さん、エマさんが倒れて――あいつは病院へ行くってタクシーで」

 苗子は目を瞠いたが声には出さず、混乱のあまりにしどろもどろになっている佳乃のそばまでやってきて、カウンターに置いてあったタオルで佳乃の髪を拭った。

「驚いたでしょう。私に伝えるために、一人でここに残っていてくれたのね。寒かったでしょうに」

「あたしのことは、どうでもいいんです。苗子さんは……驚かないんですか」

 おとなしくされるがままになりながらも佳乃は苗子を見上げた。表情は強張っているが、取り乱すこともなく自分に気を使ってくれる苗子が、どこか奇妙に映った。

 そんな佳乃に苗子は苦笑した。

「驚いてるわよ、だからこうやって佳乃ちゃんの髪を拭きながら、これからどうしたらいいか考えているの。そうね、とりあえず、拓也からの連絡を待とうかな。それまでに諸用をすませないとね」

 言うやいなや苗子はテキパキと動き始めた。風呂を沸かす間に佳乃に新しいタオルを何枚か手渡し、自分の部屋着に着替えさせた。濡れた服はランドリーに放りこみ、それを回している間に買ってきたばかりの食材で簡単な食事を作る。

 くるくると目まぐるしく動き回る苗子を見ていると、いつか垣間見たカウンターの中の拓也が思い出された。

「……やっぱり……苗子さんに、似てるんですね」

 ポツリと呟いた佳乃の言葉に、苗子は顔を上げた。何か言いたげに俯いた佳乃の様子をじっと見ていた苗子は、不意に微笑んで首を振った。

「ううん、全然似てないわよ。私はあの子みたいな考え方なんかできないし、解らない。それに私はあんな頑固じゃなかったわ。あれは父親似ね」

 佳乃はドキッとして苗子を見上げた。視線がぶつかる。

「あの子を止めるために、ここまで来てくれたのね、佳乃ちゃん」

 そんなわけじゃ、と咄嗟に頭の中に用意された否定は、言葉になる前にかき消された。

 一番解っているのは自分のはずだった――あんな情けない醜態をさらしてまで、行ってほしくないと叫んだ。会えなくなるなんて、考えられない。

 これからも会いたい、離れたくない。

 佳乃はようやく確固とした結論を掴んだ。

「――はい」


「あの子が行くのは、私のせいよ。私が弱いからだわ……」

 簡単なピラフを作って佳乃に食べるように言ってから、カウンターの奥のいすに腰掛けた苗子は小さな声で話しはじめた。

「あの子と連れ立ってこっちに来てからも、神崎の家はしつこいくらい干渉してきた。日本にいる姑――あの子のばあさまなんか、ほとんど毎日押しかけて来たくらいよ。親権と拓也の身柄さえ父親に譲れば、私には一切干渉しない、離婚するも再婚するも自由だと言ってね」

 ではあの日に見た着物の老婆は拓也の祖母だったのだと思いあたって、佳乃は息を呑んだ。

(これって本当にお家騒動ってやつ……?)

「そりゃあまあ離婚したいのは山々だけど、私が心配なのはあの子よ。あの子を会社を継ぐだけの道具にはさせたくない。夢を追って自由に生きてくれるなら、私がどんなに責められても平気なのよ。なのにあの子ったら、私をこれ以上家のことで哀しませたくないとか言って、一人で戻るとか言い出したのよ。親心が解らないにもほどがあるわよ、バカよバカ!」

 佳乃は料理に手をつけることもできずに、呆然と苗子の剣幕を眺めていた。だが苗子は突然その覇気をなくすと、額に手をあて、流しにもたれて項垂れた。

「皮肉なものよね……まさかエマちゃんまで送りこんでくるなんて、思わなかった」

 はっとして、佳乃は顔を上げた。今しかない。

 聞きたくて聞きたくて溜め込んでいた思いがついに破裂した。

「エマさんは、いったいアイツのなんなんですか!?」

「なにって、従兄妹よ」

「へ?」

 あまりに淡白な答えに、佳乃はしばらく目を見開いたまま呆然と苗子を見ていた。

「判らないのも無理ないかな、でもイトコなのあの二人。うちの旦那――拓也の父親の妹が英国人と結婚して、エマが生まれたから。昔はイギリスとアメリカを行ったり来たりすることが多かったから、拓也とエマは幼馴染だった。小さなエマちゃんがいつも拓也のあとを追いかけて回るような感じだったけど、毎日勉強ばかりさせられてた拓也にはたった一人の遊び相手だったの」

 いつかエマが言っていた『幼なじみ』が本当だったのは証明されたものの、まさか血縁まであるとは思いもしなかった。たしかに二人とも類稀な容姿の持ち主ではあるが、顔立ち自体は似ても似つかない。佳乃が気付くはずもなかった。


「あの子は拓也にたいする切り札だった……」

 項垂れたまま低く呟いた苗子の声をとらえて、佳乃はたずねた。

「幼なじみだからですか?」

「そうね……それも一因にはなるわね」

 顔を上げた苗子の目には喩えようもない感情が渦巻いて見え、佳乃は驚いて瞬いた。

 一つ大きく息を吐き、苗子は佳乃を見据えて言った。

「あの子のからだには、いくつも傷があるの」

「え?」

「あの子が持つのは、何度も手術を繰り返して、もう使い物にならないガラスの心臓よ。次に発作が起これば、もうだめだと言われてるの」

「……え?」


「そして、その傷を与えたのは拓也だから、エマは拓也の切り札なのよ」

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