堕天・3

 軽々しく、訊いてはいけなかったのだ。

 それだけは解ったけれど、もうどうすることもできなかった。


「あいつ……が、エマさんに……傷を?」

 反芻した声は、我ながらひどく間抜けな声だったと思う。

 彼を包み隠していた幾重もの葛篭つづらが、次から次へと開いていって、ついに飛び出した中身。

 それは思いもよらない真実だった。

「あれは事故。決して拓也のせいじゃない。でもあの子は自分を許そうとしないのよ」

「事故?」

「今から10年も前になるわね。子供の頃から拓也は厳しい躾を受けてた。我慢強い子だったけど、時々は我慢できなくて隠れて泣くことがあったみたい。……それがそのときだった。私もその頃は取締役として多忙で、あの子のことを省みる事ができなかったの、母親失格ね」

 苗子はもたれていたシンクから顔を上げ、外の雨の音を聞くように首をかしげた。

 笑みのなくなった彼女の顔は、はっとするくらいに翳りを帯びて見えた。溌剌とした笑顔で隠されていた部分が、雨で徐々に剥がれ落ちてくるかの如く。

「あの子は屋上で泣いた。小さかったエマはその後について上り、遊びをせがんだ。自分と違って拘束されないエマに苛立った拓也は、怒ってその手を振り払った……それだけのことよ」

 たとえ、屋上の柵が子供の体などするりと通りぬけられるような物であってもね、と。

 彼女は顔を歪めてそう言った。笑おうとしていたのかもしれなかったが、佳乃にはそれを笑顔とみなすことは出来なかった。

「そしてその下は庭園だった。丸い植え込みでもあればきっと軽い怪我ですんだでしょう」

 佳乃は何故か苗子の目を見ることができず、冷めたピラフの上に視線を泳がせた。

 皿の上にいくつも転がる剥き身のえびが、なんだかひどく滑稽だった。

「けれど下にあったのは、つるバラを支えるための鉄製のオベリスクだった」

「オベリスク?」

「長細い鳥かごのようなものよ――その先端が、針のように尖った、ね」

 腕の中を蛇が這うような嫌な感触が走り、思わず喉が鳴った。

「大手術を何度も重ねたおかげでエマは助かったわ。でも、あの子は少しの無茶もできない体になってしまった。あの子の美貌を将来会社の武器として使おうと目していた神崎は絶望したし、それ以上に参ったのは拓也……」

 言われなくても見える。

 彼が、どれだけ傷付いて、自分を責めつづけたかと言うことが。

「拓也はその事件以来、一度も泣かなくなったし、逃げ出しもしなくなった。大嫌いだった敬語しか喋らなくなって、ただ本当に従順に父親の命令に従うだけの感情のない子になって……いいえ、内心では父親に反発していても、決して顔には出さないことを覚えてしまったのね」


 能面、無表情、嫌味たらしい口調の毒舌男。何度そう思っただろう。

『治らないんですって、一言だけ答えたんだ、あいつ』


 あたしはばかだ。


「今更、ほとんど攫うみたいにしてこっちに連れてきたけれど、拓也は変わった。人形みたいだったあの子が、少しずつだけど笑ったり怒ったりするようになって、毎日の出来事も自分から話してくれるようになって、本当に楽しそうだった。きっと、佳乃ちゃんのおかげね」

「ちがいます……」

 佳乃はそれだけ答えるのが精一杯だった。口もとを押さえて俯いた佳乃を訝しげに見やった苗子が声をかけようとした時、不意に風と雨の唸りを破って機械的な音が鳴り響いた。ぎょっとして肩を竦めた佳乃が電話だと認識するのと同時に、苗子は受話器を取って口を開いていた。

「はい、神崎……あ、拓也? どう――」

 佳乃は思わず顔を上げて切迫した苗子の横顔を見つめた。その表情が僅かに緩み、受話器の向こうに聞こえないようにこっそりと漏らされた安堵の息も聞き漏らさなかった。

(悪い知らせじゃないのかな……?)

「そう、とりあえずは良か――え、なに? タクシー代?」

 佳乃は思わず飛びあがった。よく考えれば佳乃はほぼ意図的な無賃だったが、彼は逼迫した焦りで所持金など考える間もなく乗りこんでしまったのだ。決してわざとけしかけたわけでは、と心の中で必死で弁解はしてみたものの、佳乃の耳は電話の内容に釘付けだった。

「ばかねえ、まったく――え、ああ、じゃあ付き添いは私が代わるから、あんたはそのままそのタクシーで帰ってきて、お金払いなさい。タクシー代は置いてってあげるから――うん、そう。じゃあね」

 受話器を置いてくたびれた髪を大きくかきあげた苗子は、もういつもの陽気な目の色を取り戻していた。たとえそれが陰での努力の賜物だとしても、やはり苗子には明るい顔の方が似合う。

 苗子はエプロンをふわりと身からはがし、佳乃を振りかえった。

「佳乃ちゃん、悪いけど少しだけお留守番しておいてもらえるかしら。あ、大丈夫よお客さんは来ないようにクローズドのプレート下げて行くから。お風呂もそろそろ沸く頃だから、冷えた体を暖めたほうがいいかもね、上がる頃にはランドリーの服も乾いてるだろうし……」

 佳乃は驚き、慌てて立ち上がった。「あ、いえあたしももう帰りますから、おかまいなく」

「何言ってるの、こんな嵐で。電車ももう止まってるわよ。私が帰ってきたら車で送ってあげるから、もう少しだけ待っていてちょうだい。あ、できればお家に連絡しておいてね」

「いやいやいや、そんな」

 それはつまり先程の会話の内容から察するに、苗子が出た後しばらく拓也と二人きりになるということだ。それだけは困る――特に今は、彼と顔を合わせたくない。

 合わせる顔などなかった。

 だが苗子は右往左往する佳乃をハイハイとあしらいながら、早々に準備を整えて出て行ってしまった。

 フロアに一人残された佳乃は、途方に暮れてただ立ち尽くすしかなかった。

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