堕天・1

 扉が閉まると、急に静寂が訪れる。それほどに外界が激しい嵐だったのだということを知って佳乃は立ち尽くした。髪からも服からもひっきりなしに水が滴り落ちて、綺麗に磨かれた木目のフロアに水溜りを作った。

 静けさの中に突然、高く澄んだものが響いた。

 オルゴールの、置き去りにされたひとつの音だった。

「……エマ?」

 あまりに静かだった。

 拓也はカウンターから四角く畳まれた白いタオルを出してきて佳乃に手渡し、少し待つように言ったあと、奥の階段を上がっていった。

 エマを呼んでくることは佳乃にも解っていたけれど、黙って待つつもりだった。彼女の口から、はっきりとした事情を聞きたかったから。

 けれどいくらもしないうちに、拓也は大変な勢いで階段を駆け下りてきた。

「……エマは?」

「え?」

「エマがいない」

 拓也の顔は蒼白だった。そしていきなり走り出したかと思うと、再び嵐へのドアを開けて佳乃を振りかえった。「あなたはここにいてください!」

「ハァっ!? ちょっ――ま、待って、あたしも行くってば!」

 髪を拭いていたタオルを放り出して、佳乃は拓也の後を追った。彼の豹変がただごとではないことを示している。

 全身に容赦なく打ちつける雨粒を必死で払いながら、佳乃は叫んだ。

「エマさんは家を飛び出したの? この嵐の中に、どうして!」

「関口さん、エマを探してください! 僕はこっちを、あなたは街路の方を」

 言うやいなや、拓也はすごい速さで駆けていった。あの速さでは到底自分などが撒けるはずがないのだと妙に納得させられてしまい、今度から走って逃げるという手段はできるだけ使わないようにしようなどと佳乃は悠長に考えていた。

 知らなかったのだ――拓也の、あの激しい動揺の意味を。

「寒……っ、ふえっくしゅん!」

 一発大きなくしゃみをして両腕を抱えた佳乃は、少しでも雨よけにならないかと近づいた街路樹の根元を見て、しばしその目を疑った。「――え?」

 くずおれた花のように、細い両手足を濡れた路上に投げ出している。広がる柔らかなショールとスカートの豊かなフレアーは濡れそぼり、最初はそれが何か判別が出来なかった。駆けよって覗き込み、佳乃はあっと声を上げた。

 ぐったりと力を失って倒れているのは、紛れもないエマだった。

「エマさん?」

 肩を揺する。反応はない。目を開かない――気絶している。

 そのときにやっと事の重大さに気がついて、佳乃は絶叫した。体が震え出した。

「え――エマさん! エマさん、しっかりして! ここよ、神崎来て、神崎ーっ!」


 彼が恐れていたのはこれだったのだと、そのときにひらめいた。

 まるで、堕天の乙女。脳裏にあの絵が蘇る。それを振り払うように頭を左右に大きく動かして、佳乃はエマにすがりつく。

「エマさん、エマさん!」

 掴んだ肩の薄さに驚いて、触れた頬の冷たさに慄いた。

 何度揺すっても返事はなく、いつも目も醒めるような深紅を滲ませた唇はすでに紫色に変色して、その隙間からは浅く微かな呼吸が繰り返されているのみ。

 佳乃は動転していたが、とにかくこれ以上冷やしてはいけないと、エマの体を銀杏の枝葉の下へ引きずり込んだ。茂る枝葉が雨を弾いて、幾分かは濡れずにすみそうだった。

「エマ! 関口さん!」

 拓也の声に佳乃は顔を上げ、銀杏の下から飛び出してその姿を探した。果たして街路の向こうから駆けて来る彼の影をとらえると、大声で叫ぶ。

「ここ、ここよ! エマさんが!」

「エマっ!」

 駆けこんできた拓也は佳乃のすぐそばに跪き、エマを自分の膝の上に抱え起こして、額、頬、口もと、のどもと、それから手首へと、驚くほどすばやく右手をあてがっていった。すっかり動転していた佳乃は、拓也の行動になんの意味があるのかも解らずにただ呆然とそれを眺めていた。まるで、どこかの医者のようだと思った。それから、まるで何もかも予期していたような対応だと、思って……

(……予期?)

「関口さん、携帯は!」

「え――も、持ってない」

「じゃあ、家へ戻って救急車を呼んでください!」

「きゅう、きゅうしゃ……」

 頭がスパークしたような気がした。

 拓也は横たわるエマを両手で抱き上げ、脅威的にも走り出した。あの細い体のどこにそんな力があるのか。もしくはエマが恐ろしく軽いのかもしれなかったが、佳乃にとってはどちらでもいい事だった。

「関口さん、急いでください!」

 佳乃は弾かれたように顔を上げて、たった今思い出したことを叫んだ。

「――タクシーがある! あたしが乗ってきたタクシーを待たせてるわ!」


 タクシーを飛び降りたのはたしかミストレス・リーフのすぐ近くだったはず。まだ待っていてくれている事を祈って走りながら、佳乃はその奇妙な因果を思った。無賃上等とばかりに勢いで乗ってきてしまったタクシーが、まさかこんな所でこんな風に、救いの御手になることがあるなんて。

 大雨のなか、忙しなくワイパーを行き来させるフロントガラスが見えた。

 その規則的な音さえ聞こえないほどの大雨に囲まれ、客の少女を待ちくたびれてうとうとしていた運転手は、何か喚きながらずぶぬれになって走って来る人影を見て思わず扉を開けた。

「タクシー、タクシータクシー!」

 開いたドアから飛びこんできたのは待ちくたびれた少女の声。けれど乗りこんできたのは、思いがけなくも全身濡れ鼠になった青年と、彼に抱えられた大きな人形のような少女だった。

「病院へ行ってください」

 この状況にはそぐわないほど静かにそう言ってから、拓也は助手席に乗り込もうとする佳乃を制した。「いえ、関口さんは来なくていいんです」

「はあ? 何言ってんの、だって、エマさんがこんな――」

 こんな時に何を言い出すのだと佳乃が憤慨して振り返ると、拓也は佳乃を見据えて首を振った。

「エマには僕が付いていますから、関口さんはうちの方へ戻っていて下さい。もうすぐ母親が帰ってくるから、いつもの病院にいると伝えてくれませんか、お願いします」

「………」

「必ず、戻りますから」

 念を押すように佳乃の目をひたと見つめたあと、拓也は運転手を促してドアを閉めた。嵐の中を走り去るタクシーを見送りながら、佳乃は茫然と雨の中に立ち竦むしかなかった。

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