ミストレスリーフ・1
秋も深まる、十月の日曜日。
窓から溢れる光を浴びて受験勉強に勤しんでいた佳乃は、問題集が一冊終わったのを区切りに椅子の背にもたれかかり、外の景色を眺めた。
たしかもう手元にあるもので解いてない問題集はなかったはずだ。
まだしっかりと志望を定めていない佳乃は、使い道のない毎月のお小遣いを問題集と参考書の乱獲に充てていたので、数だけは大量にこなしている。
それでもこのところ、あまり頭に入ったとは言えないのが現状だった。
(なんだろうなあ……何か、イマイチ集中力に欠けるなあ)
立ち上がってカーテンを開けると、秋の空はすがすがしい蒼一色だった。暑くも寒くもない、気候的にも一番好きな季節。
そう言えば、このところ通学以外で外出などしていない気がする。
「いい天気だし、花乃誘って散歩でも行こうかな……」
「かーの、入るよー」
何度か叩いても返事のないドアを開けると、優しい香りが鼻をくすぐる。
佳乃が参考書を乱獲するのと同様、花乃はもらったばかりのお小遣いをほとんどその日のうちに服と紅茶と雑貨に費やしてしまう。その甲斐あってか、久々に入る花乃の部屋は、本だらけで殺風景な佳乃の部屋と同じ構造だとは信じられないくらいに変わり映えしていた。
小花柄の壁紙に沿うようにして淡いピンクのカフェカーテンが窓際で揺れており、部屋のいたるところに飾られたドライフラワーやポプリが柔らかな甘い香りを漂わせていた。ベッドの周りには大小のテディベアが所狭しと並び、その中に埋もれるようにして花乃が眠っていた。
(せ、世界が違う……花乃ならエマさんにも対抗できそうな気がする……)
おそるおそる上から覗き込んでみると、花乃はすやすやと安らかな寝息を立てて熟睡していた。
ただ眠っているだけでも幸せそうな花乃を見ているとどうしても起こす気にはなれなくて、佳乃はしずかに部屋を出た。
「……しかたない、あたし一人で行くとするか」
そうして佳乃は、風野丘の駅に立っているのだった。発車した電車の追い風を受けながら、しばらく呆然とホームに立ちつくしていた。
確か、勧められた大学のことと次に買う参考書のことを考えていたはずだったのだが、何故こんなところで降りてしまったのだろう。目当ての本屋も何もない、ただの閑静な住宅街があるだけの、こんな町で――。
(……あたし、ホントは気にしてるんだろうか)
何を、とは考えない。考えてもわかるはずがないと思った。
ベンチに座ってしばらく逡巡した末に、佳乃は立ち上がって歩き出した。
幾度か見たあのイチョウの並木道を一目見たいと、そのためだけだと、ただ必死に迷う心に言い聞かせるようにして。
今まで二度しか来たことがないにも関わらず、佳乃は珍しく迷子にならずに銀杏並木の街路へたどり着いた。人通りの少ない歩道に立ち止まってイチョウを見上げると、その葉はまだいきいきとした黄緑色を保って枝にしがみついていた。
「やっぱり、落葉にはまだ早かったかな。色づき始めたって感じ」
10月に入ったばかりでは早い――そんなこと解りきっていたはずなのに、こんなところまで来てしまった自分がいた。佳乃は石畳の上にしゃがみ込み、先駆けで舞い落ちている扇形の葉を指でつまんでくるくると玩びながら、ずっと続く並木道の彼方に目を凝らした。
生い茂る並木の向こうに、赤い屋根がかいま見えた。
「………」
自分がどうしたいのか本当は解っているはずなのに、足は動かなかった。『理由』がない――何故来たんだと問われたら? 何故行きたいと思うのか、そんな自分への答えさえ見つからないのに、答えられるはずがなかった。それが怖かった。
しばらくしゃがみ込んだまま無心にいじっていたイチョウの葉が、よれよれになってしまった。それを見て佳乃はため息を付き、思い切って立ち上がった。
(イチョウも見たし、もういいでしょうあたし! 帰るのよ、ここにいたってやることないし!)
潔くきびすを返して数歩歩いたとき、かすかに聞き覚えのあるベルの音が佳乃の耳に届いた。自分では全くそんなつもりはなかったのだが、この時佳乃はものすごい勢いで振り返っていた。
「……関口さん」
喫茶店の入り口で、ほうきとちりとりを手にした拓也が呟いた。二人の間は数十メートルも離れているのに、この時二人は一瞬にして互いの姿をとらえていた。
拓也は灰色のVネックセーターとジーンズで、栞あたりが見れば大騒ぎするであろうくらい滅多に見ることのない私服姿だった。それが余計に佳乃を動揺させた。
佳乃は慌てて息を吸い、口を開けて、そしてまた閉じた。話しかける言葉がまったく出てこないことに改めて気付いて、どうしたものかと困り果てる。
拓也の近くに走り寄ることも、その場から退散することも出来ず、佳乃は並木道の真ん中で棒立ちになっていた。
そして拓也もまた、無言のまま動かなかった。
それがこの二人の間に奇妙な雰囲気を生み出して、距離を挟んだまま見つめ合う少年と少女の姿は、今までにない空気に包まれていた。
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