ミストレスリーフ・2

「言の葉は 想い充ちたる 笹の舟 疾く流されよ 天の川辺に」


「え?」

 背後からいきなり場違いな句が聞こえて、拓也は思わず一歩前に出た。その後ろから顔を出したのは、相変わらずエプロン姿が若々しい苗子だった。

「突然なんですか、母さん」

 呆れた顔で振り返る拓也に、苗子はうふふと笑って囁く。

「あら、いいと思わない? 今の二人って、何だか七夕の織姫と彦星みたいだったのよ。ロマンチックだったからつい詠んじゃったわ。でもはっきり言ってじれったいからさっさと喋れっていう歌なの。どう、どう? アメリカ暮らしの長かった私にしては結構いい出来だと思わない?」

「か、母さん! 何を勝手に……っ」

 その話の内容は離れすぎていた佳乃の耳には届かなかった。そのため拓也が珍しく顔を真っ赤にして何を喚いているのかも理解できず、呆然とそこに立ちつくしていた。苗子は笑いながら拓也の苦情を聞き流し、佳乃に手を振った。

「やっほー、佳乃ちゃん!こっちへいらっしゃいよ!」

 笑顔で呼ばれて逃げ出すわけにも行かないので、佳乃は素直に喫茶店の入り口まで歩いてきて、苗子にぺこりと一礼した。「こんにちは、苗子さん。ここでお会いするのはお久しぶりです」

「来てくれるのは三カ月ぶりよね。ずっと待ってたのよ、拓也に連れてこいって言っても全然聞かないし。でもそのくせあなたのことはよく話すから、ホントはあんまり久々という感じじゃないの」

「へえっ?」

 佳乃は思わず頓狂な声を上げて拓也を見上げた。拓也はますます狼狽し、佳乃の視線を避けるようにしていきなり地面を掃き始めた。佳乃も佳乃で平常心を保てず、意味もなく頭に血が上るのを忌々しく思いながら苗子に視線を戻した。

「エマちゃんはあなたのことを可愛い可愛いって言ってたわ。よほど気に入ったのね。拓也もね、あなたのことになると珍しく口数が増えて。生意気だとか可愛げがないとかおっちょこちょいだとか、自分のことは棚に上げて失礼なことばっかり言って喜んでるのよ。好意の裏返しにしたって失礼極まりないわよね、賢ぶってるけどまだまだコドモなのよ。こんな子でごめんねー佳乃ちゃん、オホホ」

 苗子の、何者をも凌駕する饒舌かつ毒舌ぶりは、健在どころか数倍パワーアップしているようだった。止める暇もなく全てを暴露された上にとどめまで刺された拓也は力無くその場にへたり込み、佳乃も高笑いする苗子を呆然と見つめることしかできなかった。

 自分のことを散々に言っているらしい拓也は腹立たしかったが、苗子の本性をかいま見てしまったことで、佳乃はほんの少しだけ彼女の息子に同情を覚えた。


「ちょうど今はお客さんもいないの。好きなところに座って」

 苗子に勧められて、佳乃はカウンターの端席に腰掛けた。独りの時は、ただ広いだけのテーブル席よりもここが一番落ちつく。

(前に来たときは、忍君と二人だったんだな……)

 今座っている席からちょうど対角線の窓際のテーブルに、3ヵ月前の自分がいた。

 恋の予感をかすかに感じはじめて、戸惑いと恐れと歓喜を抱いた胸をもてあましながら、それでも忍を前にして楽しい時を過ごしていた。まだ恋の確信も持てず、ただフワフワした気分に酔っていたあの頃。

 はたしてあの頃の自分は、拓也の目にどんな風に映っていたのだろう。

「何か飲む?」

 苗子の声に我に返り、佳乃は頷いた。

「はい、えっと、あったかいカフェオレ下さい」

「オッケー。ショコラホイップはサービスしとく。ところで彼氏は今日一緒じゃないの?」

「え、カレシ?」

 佳乃が目を丸くすると、苗子は不思議そうな面持ちで問い返した。

「忍君よ。彼氏でしょ? そう言えばあの子も7月から来てないのよね。元気してるかしら?」

 佳乃はやっと思い当たった。7月に来たとき、成り行きのまま忍とは恋人同士ということになっていたのだ。それでタダでケーキを食べまくった手前、下手をすれば食い逃げ同然なので(いやもう充分その通りなのだが)今更迂闊なことは言えない。

 仕方なく佳乃が引きつった顔で頷こうとすると、皿を洗っていた拓也が愛想のない口調で呟いた。

「忍はフラれたんですよ」

「ええっ、そうなの。どうして? いい子じゃない、優しくて気が利くし」

「度を越えるバカだったんです。自業自得です」

 拓也はかなり辛辣な言葉をさらりと言い放ち、蛇口をしめてカウンターから出てきた。それと入れ替わるようにしてカウンターに入った苗子は、正面から佳乃の顔を覗き込んで微笑んだ。

「ふうん、そうなの。でもそうすると、拓也にもチャンスが来たってわけね。忍君には悪いけど応援するわよ? だって佳乃ちゃんいい子だもん。私もこんな娘が欲しいと思ってたのよね、うふふ」

「「な」」

 二人は同時に言葉につまり、そして怒鳴った。

「「何の話ですかっっ!」」


(ああもう、やっぱり底抜けに元気なお母さんだなあ)

 温かいカフェオレをすすりながら、佳乃はため息を付いた。夏の日に見た苗子の涙は見間違いかと思うほどのハッスルぶりだった。あるいは本当に心から佳乃の訪問を喜んでくれているのかもしれない。そう思うと悪い気はしなかった。

(あ、やっぱり美味しいぞ、このカフェオレ。ホイップクリームがまた絶妙……ん?)

 ふと店内に目をやると、さっきまでいたはずの苗子の姿が見えなくなっていた。客が来る気配もなく、気付いた時にはカウンターの右端と左端に位置した佳乃と拓也だけしかいなかった。

「うそ!」

「は? なんですか」

 思わず叫んだ佳乃の声に拓也が反応して振り向いた。拓也は佳乃の座っている所と反対側のカウンターの端で何か木の箱のようなものをいじっていて、様子はよく見えなかった。

「え、いや……これ、おいしいなーと、思って」

 しどろもどろで佳乃が答えると、拓也はたいして喜ぶ様子もなく俯いた。

「それはどうも……」

 何故か急に訪れた沈黙が、二人のあいだを重く遮った。

 気まずさに耐えかねた佳乃は、間を持たせるために残り少なくなったカフェオレを音を立ててすすりながら、ここに来たことを少なからず後悔していた。

(やりにくいなあ……。いつものように憎まれ口を叩ける雰囲気でもないし、話題もないし……聞きたいことは、一応、あるんだけども……)

 ただ怖かった。また前のように、突き放されたら。

 自分の心が弱っているのを佳乃は察知していた。今までは悔しくて考えるのも嫌だったが、京都の夜以来、自分が明らかに拓也を意識するようになっていることにも気付いていた。やめようと思ってもやめられるものではなくて、それは色々な要因を含んで少しずつ膨らんでくるものだから、佳乃はこれ以上自分の心が傷つかないように守ることだけで精一杯なのだ。

 これとよく似た成長を知っている。

 ――それは、こころの中にひっそりと花が咲くまでの。


(ちがう、これは恋なんかじゃない。でも……)

 知りたいと思うのは、いけないことなのだろうか。

(ただの好奇心でもないんだよ……?)

 その思いがどこから来るものなのか、はっきりとは分からなかったけれど。

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