薔薇の移り香

 いまだ頭の芯が痺れたような状態のまま、佳乃は家のドアを開けた。

「ただいまぁ……」

「あっ! 帰ってきた!」

 リビングから甲高い叫び声が聞こえ、一目散に駆けてきたのは花乃だった。

「お帰りっ、佳乃ちゃん! 何してたの? お昼ご飯作ったんだよー、食べてきたの?」

 顔を近づけてくんくんと鼻を動かす花乃に、佳乃は内心ひやりとした。可愛らしい仕種も子犬のようなら、実はその嗅覚も犬並ではないかと思うほど花乃は敏感なのだ。尋ねられてもまさかあの美少女に無理矢理連れ去られてご飯食べたなどと答えられるはずがなく、別の言い訳も思いつかない。緊張して立ちつくす佳乃から顔を離し、花乃はことんと首を傾げた。

「何のにおい? すっごくイイ匂いがする。おいしそうな匂いと、お花の香り」

「え?」

 佳乃は思わず制服の大きな襟を掴んで鼻に近付けてみた。それを意識して探すと、クローゼットから出したばかりの冬服にまとわりついたナフタリンのはざまに、たしかに甘い香りを見つけた。甘くて気品のある、薔薇の花の香り。

(そうか、あんまりにも近くにいすぎて気付かなかったのか……ううん、麻痺しちゃってたのかな。これ、エマさんの香りだ。こういうの、移り香って言うのよね)

 玄関まで迎えに出てきた母親が少し意外そうな顔をして足を止め、意味深に微笑む。

「めずらしい、勉強の鬼の佳乃が花の香りなんて。あらこれ、アリュールじゃない?」

「アリュール?」

 双子がおうむ返しに呟くと、紫乃はふふと笑いながら答えた。「香水よ。これ、人によって香りが少しずつ変わるんだけど、それにしても佳乃にこの香りを移したのは余程似合う人ね、見事な芳香。佳乃にはちょっとオトナの香りね」

 からかい含みの紫乃の言葉に、佳乃はむっとして黙り込んだ。要するに佳乃では子供っぽすぎて相応しくないと言いたいのだろうが、つけていた相手が16歳と言ってやったらどんな顔をするだろうか――そうは思ってみたものの、余計に自分が凹むだけになる気がしたのでやめた。

「電車で隣になった人の香水でしょ。お昼は食べてきたから」

 そう言って自分の部屋へこもろうとした佳乃のあとを、ぱたぱたとスリッパの音を連れて花乃が付いてくる。「ね、ね、今日鈴木先生に呼ばれてたでしょう? 何のおはなしだったの?」

「ん、ああ。進路のことよ。早く決めろってさ」

 校門を出た直後からそんなものを思い出す余地もなかったが、その問題もあったのだ。表情を曇らせた佳乃を、花乃が心配そうに覗き込む。

「大丈夫なの? 悩み事は一人で抱え込んじゃダメだよ。こればっかりは、わたしにはどうしようもないけど……でも聞くくらいはできるもん」

「いいのよ、花乃は余計な心配しなくても。花乃の方はどうなのよ、付属とれそう?」

 純泉堂は初等教育部にあたる小学校から、高等教育部にあたる四年制大学までの巨大なエスカレータ式学園だが、目立って偏差値が高いのは中等教育部のみで、その中の成績優秀者は難関国立や有名私大を目指して出ていくので、結局付属大学への進学はほとんど関門なしの状態だった。花乃は早々とその付属短大を志望に決め、最初で最後の書類選考を間近にしていた。

「うん、ギリギリでいけそうだって先生言ってた。委員やったのも評価してくれるって」

「そっかあ、よかったじゃん! 決まったらお祝いしなきゃね」

「ダメだよ、今までみたいに二人一緒にお祝いするんだから! ね?」

 二人は顔を見合わせて笑った。今までのように二人で一緒にと言ってくれる花乃が愛しくてたまらなかった。

 大切な双子の片割れは、きっと自分にはいつまでたっても憧れで、追いつけない存在であると思う。けれどそれをやっかんだり憎んだりする気持ちは、もう綺麗に消えていた。

 旅行から帰ってから、ベッドの中とお風呂場で、何度か泣いた。知らない間に覚えてしまった忍のくせや声のトーンや、優しい微笑み、そんなものを思い出すと自然と涙が溢れた。もう二度と見れないものかも知れないと思うと、それだけが哀しくて泣けた。(しくしくと泣いているうちに段々悲しみが剥がれ落ちていって、最後の方はあの神崎の狼藉に対する悔し泣きでしかなかったような気もするが。)

 けれどそれで、随分と心の整理が付いたのは確かだった。

(ふられたことは哀しかったけど、嫌いだった自分が遠くなっていくのは、いいことよね)


「あっという間に修学旅行も終わっちゃったね。なんだか思ったより早かったなー、楽しかったけど。次は文化祭かあ……あっ! そうだ佳乃ちゃん、文化祭で何するか聞いた!?」

 花乃が突然大声を上げたので、佳乃は感慨から引き離されて大きく目を見開いた。

「え、文化祭って純泉祭のこと? ……なに、なにやるのよ」

 不安に駆られて、佳乃は花乃の肩を掴んだ。

 純泉堂の文化祭は純泉祭といい、年に一度、全学園一斉に開催する途轍もなく大規模なイベントだった。元々学業以外に興味のなかった佳乃は、入学してすぐにこのとんでもない行事のことを知って少々悔いたものだ。どこの高校に、アマ劇団も真っ青の設備を用意して、『3日間連続・6部立て』で超大作演劇をやろうなどというところがあるものか――しかもあろうことか、高峰を目指すはずの進学校の『受験生全員』で。

 いやな寒気を押し殺す佳乃とは対照的に、花乃は興奮さめやらぬ様子で捲し立てた。

「3年は恒例の全クラス合同劇でしょ? それでね、今年はなんと!」

「……なんと?」

「源氏物語なんだよーっ! 全三部を、3日かけて完全舞台化するの! すごいでしょ!」

「ブッ」

 佳乃は吹き出し、思わず数歩後ずさった。「誰がそんな企画立てたのよ!」

「福原くんだよ。クラス委員でしょ? 何がいいって聞かれたから、佳乃ちゃん平安時代好きだったなあって思って、案を出してみたの。そしたらホントに通っちゃったみたいでびっくりだよ。それでね、あのね、わたしキャスト組になっちゃった……」

「――は?」

 佳乃は首を突き出した。あまりにあまりなことばかりでよくわからない。

「だからね、なんだかよくわかんないうちにキャスト候補になっちゃって。役はまだ決まってないんだけど、今度キャスト組が集まって会議するときに決めるんだって。ねえ、佳乃ちゃん……」

「いやよ」

 佳乃はじりじりと後ずさって首を振り乱した。「イヤと言ったらいやよ、今度ばかりは絶対にやらないわよ! 花乃のことだからどうせまた押しつけられたんでしょう。でもあたしはキャストも裏方も絶対にイヤ、冗談じゃないわよ、いくら花乃の頼みでも絶対にやーよ!」

 あまりに佳乃が強く拒否するので、花乃は苦笑いを浮かべて手を振った。

「やだなあ、わかってるよ。佳乃ちゃん受験生だもん、そんなこと頼めないよ。キャストはほとんど進路先の決定した人に回ってくるみたいだから大丈夫だよ。あ、でもセリフ読む練習とかは手伝ってね」

 ようやく佳乃はふうと息を吐いて、落ち着いて花乃を見返した。この花乃に演技なんか出来るのだろうかと思うと不安で仕方なかったが、本人はどうやらまんざらでもない様子なので水を差すこともないだろう。

「よくやるわね、花乃も。頑張ってね、応援はするわ」

「うん。福原くんもいろいろ手伝ってくれるって言うから安心! 福原くんてホントにいい人だね。しっかりしてるし、優しいし。頼りになる人でよかったぁ」

(あ――)

 佳乃は不思議と自分が冷静でいられることに気付いた。ひらめくような悟りは、いやいやをしながらつっかえつっかえ降りてくる感じではなくて、すとんと素直に自分の胸の中に収まった。

(そうか、やっと、行動に移したんだね、忍くん)

 花乃の感情は確かに忍にとって良い方向に向いている。それが恋に変わるか変わらないかも彼次第――そう、それはもう時間の問題かもしれない。

(祝福できる、きっと。もう……痛くないから)

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