修学旅行・6日目<京都の夜2>

 どれくらいその場に佇んでいたのか。

 ようやく忍は身動きして、無意識に手を口元に持っていった。両手で顔全体を覆うようにして、やっとのことで呟いた。

「オレ……」

 言われるまで、気付かないなんて。自分のことを好きでいてくれた子に、それを言わせるまで気付かないでいられたなんて。高澄を非難するどころの話ではない。

「今まで一体、どれだけ佳乃ちゃんを傷つけてきたんだよ……」

「数え切れませんね」

 自問に思わぬところから答えがあり、忍は振り返った。部屋でカードをしていたはずの拓也が、制服のシャツのまま腕を組んでそこに立っていた。

「見てたのか……?」

「いいえ、今来たんです。関口さんは?」

 忍はのろのろと佳乃が走り去った橋の方を指差した。拓也は肩を竦め、忍を辛辣に睨んだ。「忍がそこまで愚かだとは思いませんでした。優しさと人を馬鹿にすることの区別もつかないんですか」

「ちがう」

 拓也の冷たい言葉をききながら、まるで昨日までの自分と高澄のようだ、と心のどこかで思っていた。けれど認めたくなかった。必死の思いで、忍は反論した。

「馬鹿になんかしていない、決して。佳乃ちゃんのことは、本当に好きだっ――」

 突然ぴたりと鼻先に指をつきつけられて、忍は押し黙った。拓也がこんな風にアクションを起こすのは初めてのことだった。

「それ、二度と言わないで下さいね」

 いつにもまして不機嫌に呟いて、拓也もまた忍の前から駆け去った。


 は、ら。

 手にしたもみじの葉を橋の上から落としてみる。

 あちらこちらと向きを変え舞いながら水面に辿りついた緑のもみじは、群青色の流れに押し流されて橋の下を潜り抜けて行く。きっと紅く染まっていた葉なら、綺麗に見えたんだろうなあ、などとぼんやりと考えながらそれを見送り、佳乃はその場に座り込んだ。

(あー……つかれた)

 欄干の上に両腕を乗せ、あごを預ける形で目を閉じる。すると急に自分を包んでいた騒音も雑踏も聞こえなくなって、ただ流れて行く水の音だけが清らに響いた。

(流されたい、もみじみたいに。冷たい水にすべてまかせて、ゆっくりと漂いたい……)

 ここぞとばかりに深いため息をついてみる。これが感傷ということなのね、としんみり考えると、自分がこの風景に妙に融け込むような錯覚を覚えた。京都で失恋。フレーズ的には悪くない。

 そんな脈絡もないことばかり浅く考えていると、突然佳乃の幻想を破る不規則な足音が近づいてきた。ひどくせわしなく落ちつきのない足取りだ。

(誰よ、あたしの傷心の邪魔をするのは)

 腹を立てて振り返ってみると、行き交う人々の間を縫って見慣れた制服が駆けてくるところだった。不思議とその一人の足音だけが、佳乃の耳に届くのだった。最初は忍が追って来たのかと思った。けれど、よく考えれば忍は浴衣だったような気がする。じゃあ、あれは――

(神崎拓也――が、走ってる)

 予想外のものを見て佳乃は立ち上がった。何故アイツがこの時間にこんなところを走っているのだろう。不審と興味で、佳乃は少しずつ近づいてくる拓也から目が離せなかった。でもここにこのまま立っていれば見つかるかもしれない。相手が行き過ぎるのを待つか、それともどこかに隠れるか――

 ところが、やっと拓也の視線の先が判別できるような距離になって初めて、佳乃は戦慄した。彼の目には自分しか映っておらず、つまり彼の目標は恐らく佳乃自身なのだと気付いたのだ。

(へ? ええ!? 何で……何であいつが来るのよ――!)

 わけがわからず、ただでさえ不安定だった心はパニックに陥った。

 佳乃は、心の求めるままに浴衣のすそをたくし上げ、全速力できびすを返して逃げ出した。


 浴衣と下駄で走っていると、思い出す事がある。

 舞妓になってみんなの前に現れたときも、コイツにばれて、走って逃げた。次の日の朝も、自動販売機の前で鉢合わせをして、浴衣のまま逃げた。どうしてこんなことばかり繰り返しているのだろう。でも明らかに、今回は2つの前例とは違う。

 それは走る佳乃がいつまでたっても立ち止まれないことにあった。

(なんで!? なんでえ!? 何で追いかけてくるのー!)

 人ごみを掻き分けながら橋を渡りきって、たもとの階段を降りると河原に出た。遠目からは気付かなかったが、よく見れば夜の闇に紛れて無数のカップルが寄り添いながら二人の世界で語り合っている。しかしそんな世界に目をくれてやる余裕はない。秋の夜の静寂を蹴散らし、佳乃は下駄の音も高らかにその間を駆け抜けた。

「関口さん、あんまり、走ると、前みたいに」

「うるさーい! 何なのよアンタ!」

 振り返ると、いまだに拓也は距離を詰めて追って来ていた。さすがに浴衣下駄と制服スニーカーでは機動力にも大きな差があるのだろうが、拓也程度のガリ勉なら撒けるだろうと思っていた佳乃にとっては誤算だった。ついでにそれが、もう一つ大きな計算違いをおかした。

 河原は情緒を大切にして、丸い石を埋めこんだ石畳にしてあったのだ。下駄でマラソンする奇怪な輩のことなど考えて作られてはいない。

 よって、拓也の忠告も聞き終わらぬうちに、佳乃は見事に蹴躓いた。

「ふぎゃ!」

「うわ!」

 タッチの差で、拓也が佳乃の腕を掴んで石激突を回避した。前回の顔面創傷程度で済むならいいが、石に激突すれば下手すれば落命もありえる。

 その可能性に思い至ってようやく、佳乃は逃げる気を失った。

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