修学旅行・6日目<京都の夜3>

「なんなの、よ……! あんたっ……!」

 掴まれた腕を振り払って、佳乃は拓也に向き直った。息切れの合間に一言二言を発するのがやっとだった。拓也もぜえぜえと息を切らしながら、相変わらずの口調で答えた。

「お、お元気なようで、安心しました……っ、しかし、鬼ごっこを、この年になってするとは、思いもよりませんでした……。浴衣、直したほうが、いいんじゃないですか……」

 そう一気に言って目を逸らした拓也を見て、佳乃は自分の格好がどれほどあられもないものだったかを思い知った。慌てて襟の合わせを直して、へなへなとその場に座り込む。まさか最後の夜に、気力体力ともにここまで浪費する羽目になろうとは考えもしなかった。

「どうしてあなたって人は、いつも無駄に元気なんですか。僕の顔を見るなり逃げ出すし……」

「アンタがいきなり追いかけてくるからでしょう。あたしは――散歩に来ただけよ。邪魔なのよ、さっさと帰ってよ。考え事してたんだから……」

 ところが、拓也はそれを聞くなり佳乃の真横にすとんと座り込んだ。帰る素振りなど微塵も見せず、常の無表情で穏やかな水面を眺めている。

「……何のつもりよ。あたしを慰めようっての?」

「必要ならばそうしようと思っていました」

 答えを聞いた佳乃は笑いだし、一頻り笑ったかと思うと突然それをやめて、射るような目で拓也を睨みつけた。視線を感じたのか、拓也が佳乃を振り返る。その目が、また気に入らなかった。

「あたしがアンタに慰められるの? 冗談じゃないわ――余計なお世話よ! ばっかみたい、同情なんてまっぴら!」

「別に同情はしてませんが」

「だったらさっさと帰れ! いま一番見たくないのはアンタの顔よ!」

 100%八つ当たりだということは、自分でも嫌というほど解っていた。けれどもう、弱り切った理性にそれを止める手立てはなかった。佳乃の心は剥き出しにされたままこの河原に放り出されて、あらゆる刺激を浴びてひどく痛んでいた。

 拓也はいつもの憎まれ口で言い返しては来なかった。しばらく黙っていたかと思うと、突然小さな声で話しはじめた。

「……あなたを余計に傷付けてしまいました。こんなことになるとは、正直考えていませんでした。まさか忍が、あそこまで鈍感だとは思わなかったんです……計算外です」

「はあ?」 佳乃は眉を寄せ、不審な目で拓也を見つめた。意味不明。

「何の話。何か勘違いしてるんじゃないの。あたしは自分から忍君を突き放したのよ。わざわざ、親切にも、このあたしがね! バカだって言うんでしょう、自分でもそう思うわよ! でもそうするしか仕方なかったのよ!」

 一人だけで、涙として全部流すはずだった想いが、一気に弾け飛んだ。

 もう止まらなかった。高じてくる哀しさと虚しさを怒りに変えてぶつけることができる相手は、拓也しかいないことを、無意識は感じとっていたのだ。

「これ以上汚れたくなかった! 花乃を憎むなんてことだけはしたくなかった! だって、あのままでいたらあたしダメだった――いつか自滅する。最低の女になるって、わかってたもの!」


 恋は女を鬼にする。

 他人事だと思って鏡を見たら、自分が鬼になっていた。

 そのときの絶望の深さは、きっと男には一生わからない――


「だから気付かせてあげたの。あなたが受け入れようとしてるのは、真っ赤なニセモノだってね。あーあ……我ながら、すっごい、バカみたい……っ」

 しまったと思ったときにはもう遅かった。感情の発露とともに、張り詰めた涙腺はいとも簡単に切れてしまったのだった。一度溢れてしまえば、あとはもうどうしようもなかった。

「見ないでよ、あっち行って!」

 顔をそむけ、佳乃はハンカチを探して袂に手を入れ、取り出してしまった思いがけないものを見て目を見開いた。

 あの日、花乃の分と一緒に買った縁結びのお守り。

 強烈な地雷だった。出来立ての傷口に、このクリティカルヒットは効き過ぎた。

「うー……う、うえ」

 喉の奥からこみ上げてくるものをムリに我慢したせいで、妙な嗚咽が漏れた。とにかくもう周りのことなど何も気にせず、ただ大声で泣き喚きたい。だが人目をはばからず泣き崩れるには、隣でおしの如く黙りこくっている人物が邪魔だった。

「どっか行けって言ってるでしょ! こんなもの、いらない。あげるわよ。せいぜい花乃を、福原君にとられないようにするのね!」

 お守りを拓也に力いっぱい投げつける。それまで川の方を見ていた拓也は、急に投げつけられたそれを胸元で受け止め、ぼんやりとそれを見た後、ゆっくりと佳乃に視線を移した。

 相手が去らないなら自分がどこかへ行こう。そう思って佳乃は立ちあがろうとした。だが――


「泣き顔なんて、見なければ良かった……」

 心底悔いるような声音とは裏腹に、拓也の手は痛みを伴うほど強く佳乃の手を掴んで離さなかった。その腕の力と聞いたこともないような声に佳乃は動転し、身動きができなくなった。だから、次に聞こえた声が熱を感じるほど近くで囁かれていると気付いた時、ほとんど茫然自失に陥った。

「あなたが忍とうまくいくなら、それでもいいと思っていました。でも、そうならなかったときに自分がどうするかなんて、全く考えていなかった……大きな計算ミスですね」

 瞬きすら忘れて固まった佳乃の瞳に、信じられないような距離で、今まで見たこともない拓也の顔が映った。

「僕を本気にさせた、あなたが悪いんです」


 それは、あまりに突然の。


「……?」

 半ば人事不省に陥ったまま、沈黙が通りすぎる。

 最初、何がおこっているのか理解すら出来なかった。いきなり近づく彼の顔を見て、一瞬不覚にもそのまつげの長さに見入ってしまった。それから咄嗟に――確かではないのだが多分、頭突きだ、と思ったのだと思う。こいつは頭突きをするつもりだ、と。

 今から考えれば、佳乃も相当動転してろくなことも考えられなくなっていたのだが、反射的に目を閉じるという防衛反応はあったのだった。それが悪かった。

 ぶつかったのは頭ではなく、鼻でもなく、その下。

 冷えた風に乾ききった、佳乃の唇だった。

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