修学旅行・6日目<京都の夜1>
最後の大阪を、思う存分楽しんだ。
もう、何も思い残すことはないはずだ。
――勇気を出すの、佳乃。
初日と同じ京都の旅館に帰ってきた佳乃は、夕飯も入浴もすべて終わらせたあと、一人で部屋を抜け出して忍の部屋のある別館へ向かった。余計な事を考えないうちにと髪も乾かぬ間にやってきてしまったものの、ドアの前に立ったとき、中から聞こえる賑やかな声に佳乃は躊躇した。
震える手が、このドアを叩くのを恐れている。
これからしようとしていること、それを遠くない未来に少なからず後悔することはあるだろう。そんなことは何度も考えた。もし黙っていたなら、もう少し長い幸せな夢を見られるかもしれないとも。
(……このまま黙ってれば、彼はきっと気づかない)
そんな未練がまだ脳裏にしつこく粘ついて離れない。昨夜一晩中寝ずに出した結論はこんなものではなかったはずなのに、何度抜け出しても思考は甘い方へと戻ってしまう。
(ああもう自分がイヤ。面と向かったら、あたし何を口走ってしまうんだろう)
もう、どうにでもなれ。佳乃が手を振り上げたそのとき、予期せずドアが開いた。
「あれ? 佳乃ちゃん?」
ドアから佳乃の真正面に現われたのは、忍その人だった。佳乃は拳を振りかぶった状態のまま茫然と立ち尽くし、凍りついた。
まず最初に思ったのは、この手を振り下ろさなくて良かったということ。一世一代の日に、危うく神崎殴打事件の二の舞を踏むところだった。
「よ、佳乃ちゃん?」
心の準備が一瞬にして水泡に帰し、どうしようもない状態で固まっている佳乃の目の前で、忍がひらひらと手を振る。開きっぱなしのドアの向こうからは、数人の男子たちの声が聞こえてきていた。カードでもやっていたのだろうか、ヨッシャーだのチクショーだのと奇声が飛び交っているのを気の遠くなるような思いで聞きながら、佳乃はようやくのことで拳を下ろした。
「どうかしたのか、福原ー? 早く買出し行って来いよ、罰ゲームだろー」
「わかってるよ! ……行こう、佳乃ちゃん」
部屋の中に聞こえないようにだろうか、忍に小声で促されて、佳乃は黙ってその後について歩き出した。
去り際、閉まりかけたドアの向こうに見慣れた眼鏡が見えたような気がしたが、再度振り返る心の余裕はなかった。
今はただ、目の前にいる忍の姿だけを、目に焼き付けておきたかった。
廊下の硝子窓の向こうに見える庭園は、少しだけ霧にくもっていた。
「ポーカーで負けちゃってさ、買出しに行かなきゃならないんだ。すぐそこのコンビニまでだけど、佳乃ちゃんも一緒に来るか?」
「……行く」
浴衣姿の二人は、幸い誰にも見咎められることなく旅館を出て、高瀬川沿いの細道をのんびりと歩いた。提灯の光が夜色の水面に反射して、あたりはぼんやりと明るかった。
「佳乃ちゃん、髪伸びたね。もう少しで肩に届きそうだ」
忍の言葉に、佳乃は顔を上げた。忍は眩しげに目を細めて佳乃を見ていた。
「……伸ばした方が、いい?」
「え? ああ、うん。絶対似合うと思う!」
あまりに忍がはっきりと答えるので、佳乃は吹き出してしまった。もう完敗だ。
「ふふ、そうだよね。花乃と同じだもんね」
「え?」
忍が足を止めた。数歩先で佳乃も立ち止まり、振り返った。
「もういいの、福原くん。困らせてしまってごめんね」
ちゃんと笑って言えているだろうか。やけに上滑りする舌に気を取られて、表情にまで気を使う余裕がない。とにかく言ってしまわなければ。言い終わるまで忍に喋らせるわけにはいかない、聞いてしまえば絶対に、耐えられない――
「佳乃ちゃん、何のことを言って……」
「たぶんあたし、わかってたんだ。本当は福原くんが誰を見てるのか。あたしじゃない、もう一人を見てることが。でも、わかりたくなくって、ただ気持ちだけが焦ってたんだ……」
あなたが自分でも気づいていない、あなたの本当の心。
迷ってなんかいない。あなたは最初から、ただ一人だけを見ていた。
「あたしが告白なんかしちゃったから、福原くんを混乱させちゃったんだね、ごめんね」
「違う、佳乃ちゃん、オレは」
佳乃は忍の言葉をさえぎるように激しく首を振った。「違わないの。言わなければ、あなたは気づかないかもしれないって思った。でも、いつか耐えられなくなる。一緒にいても、心だけが離れていっちゃう。高澄くんが翔子ちゃんに別れを告げたかったのも、そうなったからでしょう?」
一気に言い終わって、大きく息を吐く。
正念場はここからだ。大丈夫、言える――言い切れる。
「福原くん、あたしを可愛いって何度も言ってくれた。でもそれは、あたしを見てたんじゃなかった。あたしの姿に花乃を重ねたときだけ、あたしのイメージから外れたときだけ、あなたはそう言ったのよ。髪も服も仕草も、自分でも気づいてないところで、あなたは花乃を望んでる!」
それはふと見せた微笑みだったり、柔らかなワンピースだったり、苦手なものの話だったり、追い詰められたか弱い女の子だったりしたとき。その時に、あたしは花乃の影を踏んで、彼はそれに惑わされただけの話だったのだ。
なんて簡単なこと。けれど、それを解明するまでにとんでもない時間を費やしてしまった。少なくとも、笑ってすませられる程度の恋じゃなくなっていた。
(あー、言った……)
言葉をすべて吐き出して、佳乃は気を抜けば今にも崩れ落ちそうな膝に力を込めた。一つを口に出すごとに、ひとつの心の傷口を力いっぱい掴まれて、まるで紙のようにびりびりと引き裂かれていくような気がした。
けれども、まだ終わってない。まだ残っている。
(あと一言だけ――残りの勇気を全部振り絞るのよ)
佳乃は顔を上げて忍を正面から見据えた。けれどそのときの彼の表情がどんなものか、もう理解できなかった。言葉にすべての力を注ぎ込んで、口を開くのが精一杯だった。
「欲しいなら奪い取ってよ。代わりに甘んじるんじゃなくて、神崎の手から花乃を奪い取って。福原くんなら祝福できる。あたしが、初めて好きになった人だから――」
忍は立ちすくんだまま、一言も口を開かなかった。
心に大きな風穴が開いたようだった。濡れた髪が、ひどく重くて冷たい。柔らかく頬を撫でていくかすかな秋風すら、傷口に塩を擦り込まれるくらいに痛い。
佳乃はくるりと背を向けた。
何か最後に言ってから笑顔で去るつもりだったのに、もう口を開くことすらできそうになかった。
(バイバイ、忍くん)
長い夢が終わる。
関口佳乃、17歳の初恋は、京都で終わりを告げた。
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