修学旅行・5日目<和歌山3>

「翔子ちゃん! 落ち着いて!」

 佳乃は我を失って喚き散らす翔子にしがみつき、激昂を収めようとした。翔子の顔からはいつもの明るい笑顔は消え、噛みしめて白くなった唇と、痛みをこらえるように見開かれた瞳が彼女の心の有様を表していた。

「一体何様のつもりなの。あたしに好き勝手怒らせておいて、あなたはそれを黙って聞いて、それで満足するつもり!? あたしを傷つけないつもりなの!? バカにしないで!」

「しょ、翔子ちゃん! お願い落ち着いて、こんな所で喧嘩しないで!」

 覚悟を決めて佳乃は二人の間に立ちはだかった。正面に佳乃の姿を捉えた翔子は、そこで初めてその存在に気がついたように目を瞠き、深く大きな息を吐いた。そして呟く。

「……勝手にすればいいよ。よくわかったから」

「翔子」

 高澄は低く呟いただけだった。翔子が背を向けるのを止めようともしないその様子に苛立ちを覚えながらも、佳乃は傍らの忍を見上げた。彼もまた不安気に翔子の背中を見て佳乃に言った。

「オレは高澄についてるから……佳乃ちゃんは葉月さんを」

「うん、わかった」

 二人きりで回るはずだった和歌浦は、予想もしなかった状況に陥ってしまった。けれど佳乃は心のどこかでひどく安心している自分に気付いていた。突然与えられた執行猶予に、情けなくも喜んでしまう自分が恨めしい。

(強さを取り戻すには、乗り越えなきゃいけないことなのに。弱虫なあたし……)


「……ごめん、もう大丈夫だから」

 波打ち際をしばらく歩いたところで、黙って支えられていた翔子が小さな声で囁いた。いつも元気に太陽を仰いでいる元気なポニーテールも、潮風にさらされてぐったりと乱れてしまっている。佳乃は何も口にせず、ただその髪を静かになでた。

「動転しちゃった。なんか、逆上すると手がつけられなくなっちゃうみたい、あたし……」

 ひどく哀しそうに笑う翔子が切なくて、佳乃は手を止めて翔子を覗き込んだ。

「何があったの、翔子ちゃん」

 あんなに仲が良かった二人なのに。佳乃が翔子を羨ましいと思ったのは、つい最近のことのはずだ。

 ただの痴話喧嘩じゃないことは雰囲気からも感じ取れていたが、できることなら仲直りをしてほしかった。成就したはずの想いがこんなに簡単に、あっというまに壊れてしまうものであるということを知ってしまうのは、佳乃にとっても穏やかではない出来事だったのだ。

 翔子はしばらく眉根を寄せて黙っていたが、やがて嗄れた声で唸った。

「あの人はバカなの。あたしの気持ちなんて、何も考えてない。自分が痛い目に遭えばそれで自分の気持ちが晴れるからって、ひどい」

「……?」

「あの人が最近、何かあたしに言えないことで悩んでるのは知ってたわ。もしかしたら近いうちにダメになるかも知れないって思ってた。他に好きな人ができて、それで振られるならしょうがないかなって覚悟も決めたのに――なのにあの人、わざとあたしを怒らせて、あたしから引導を渡させようとしたのよ。そんなことに気付かないとでも思ってたのかな、あたしそんなバカな女と思われてたのかな」

 佳乃は言葉をなくして翔子を見つめた。何故高澄がそんな方法をとろうとしたのか解らないけれど、翔子はその思惑に気付いてしまったのだ。

「どうして、吉村くんは、そんなことを」

「……さあね。あたしに別れを言わせて、罪悪感から逃れるため。傷つけた加害者じゃなくて、自分だけが傷ついた顔をする被害者になりきるため?」

 言い募る翔子の表情がどんどん歪んで、唇の端が微かに震え出すのが見えた。けれど翔子は泣かなかった。じっと目を瞠き、水平線を見据えていた。

「ううん、もしかしたら……やめるわ、考えても想像にすぎないもの。解るのはあの人が別れたいって思ってることだけよ。あたしはそれを、受け入れることだけしかできない」

「ダメだよ。まだ吉村くんに何も聞いてない。わからないじゃない!」

 佳乃は慌てて遮ったが、翔子はただ笑って首を振った。

「大丈夫、慰めてくれなくても。3年も吉村くんの彼女やってたもん、あの人のことは誰よりもよく解ってる。ただ、向こうがあたしのことを分かってなかっただけ――ううん、それもあたしのせいかもしれない」

 翔子は赤くなった目を擦って佳乃に向き直った。

「あたし、吉村くんにとっては面倒を見るだけのお姉さんで終わってしまったの。彼に甘えようとしなかった。長女だからかな、どうしても意地張っちゃってダメなのよね」

「ねえ、まだ好きなら、あきらめちゃダメだよ翔子ちゃん」

 必死で言い募る佳乃の言葉に、翔子は少し驚いたように瞬きをして、笑った。その目からは涙のかけらも零れなかった。

「あたしが好きでも、彼の心がなければどうにもならないのに?」


 ちがう。

(そんなこと……ないもん)

 鋭く突き刺さった翔子の笑顔が、佳乃の焦燥感を煽り立てる。あきらめてはダメだ、それでは起こる奇跡もなにもかも、失われたままになってしまう――。

 それきり黙り込んだ佳乃に、翔子はすまなそうな笑顔で話しかけた。

「ごめんね、愚痴っちゃって。もう後は一人で大丈夫だから、佳乃ちゃんは福原くんと二人で行って。折角の機会なんだから、仲良くならないと」

 佳乃は咄嗟に首を振った。

「ううん。今日は翔子ちゃんと一緒にいる、いさせて」

 弱虫、と心が罵った。

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