修学旅行・5日目<和歌山2>

 遠く、滝の流れ落ちる音が聞こえる。

 深い杜の、風に揺れる木々のざわめきが聞こえる。

 聞こえないのは、あなたの言葉。

 あなたの、心を伝える言葉だけ。


「佳乃ちゃん……」

 忍はどこか惚けたような顔をして佳乃を見て、やっとのことで名前だけを口にした。その声も、もう今までの佳乃を呼ぶ響きとは違う。友情から愛情への発展を遂げる上で、どうしても通らなければならない過程に、二人は来ていた。


 遠く、滝の流れ落ちる音だけが聞こえる。


「――ごめん!」

 沈黙を破っていきなり叫んだのは佳乃だった。

「ごめん福原くん。気にしないで。聞かなかったことにしてくれていいから。あたし、どうかしてるね、ごめんね!」

 何の準備もせずに告白をしてしまったせいで、その反応に対する覚悟が全くできていなかった。今更それに気付いた佳乃は、彼の口から出る言葉で自分がどうなってしまうのか想像もできない恐怖にただ怖じ気づいて、後ずさった。

 こんなところで泣くのだけは御免だと思った。

「あ、あたし、もうバスに行くね。じゃあ、午後の和歌浦でまた会おうね」

 言い終わりもしないうちから、佳乃は逃げるようにしてそこから駆け去った。


 和歌浦到着5分前。深呼吸を数回繰り返し、最後に大きくのびをする。

 色々考えたけれど、もうあがく必要のないことが唯一の安堵だった。

 どんな結果になっても、もう誰も羨んだりせずに、ただ素直に結果を受け入れよう。そうすればきっと、嫌いだった自分をまた好きになれるから。

(覚悟はいい? 佳乃。何を言われても、笑顔で乗り切るのよ)

 到着したバスから飛び降りると、忍が夕日に滲んだ海を眺めながら佳乃を待っていた。だがいつものようにかすかに微笑んで佳乃を迎える、その顔が先ほどより随分憔悴しているように見える。

 悩ませていることがありありとわかって、佳乃の胸が痛んだ。こんなつもりじゃなかった。

(ただ怖かったの……)

「福原くん、海岸の方へ行ってみない? ちょっと寒いけど、あたしなら平気だから」

 何も言わない忍を促して、佳乃は浜辺へ向かった。夏には海水浴客でにぎわうこの海岸も、今は閑散としていてひどく寂しい。かつて数々の和歌に詠まれた絶景ということを聞き、佳乃はこの景色を非常に楽しみにしていたのだが、今となっては風景などほとんど目には入ってこなかった。

(ああ、だめだ、心臓が持たない。死にそう)

 沈黙だけは耐えられないと思い、佳乃は必死でとりとめのないことばかりを喋り続けた。

 けれど、無駄に笑えば笑うほど心が痛くて痛くて、はち切れそうに辛い。


「佳乃ちゃん」


 ――あ、来る

 佳乃は息を止めた。そのとき。



「最ッ低! そんな人だとは思わなかった!」

 耳を劈く怒鳴り声に、二人は同時に飛び上がった。これほど冗談じゃなく心臓が止まるかと思ったのは初めてだ、と変なところで落ち着いて考えながら、佳乃は声も出せずにただ振り返った。

「あたしのこと何だと思ってるの! どうしてあたしに言わせようとするの!? バカにしてる!」

「そんなことないって!」

 二人は目を疑った。少し離れた浜辺で、人目も気にせず派手な修羅場を繰り広げているのは、信じられないことにあの翔子と高澄だった。ものすごい剣幕で怒鳴り散らしているのが翔子で、どこか冷めたような態度でそれに対しているのが高澄。

 学年一の似合いのカップル、のはずだった。

「え、え? ちょっと、福原くん。どうしよう」

「やばいよなぁ……」

 今までの張りつめた空気も忘れて、忍と佳乃は目を見合わせ、二人の間に割って入ることにした。

 かすかに、安心している自分には、気付かないふりをして。

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