修学旅行・5日目<和歌山1>
「ちょっと曇ってきたね。肌寒いかも」
熊野の那智の滝を見上げて、佳乃は身震いをした。勢いよく流れ落ちてくる水の飛沫のせいか、山際の冷気のせいか、昨日とはうって変わってひどく身体が冷えた。指先やつま先の末端の方から、しんしんと浸されていくような寒さだった。
佳乃の隣で滝の写真を撮っていた忍は、両肘を抱えて小さくなっている佳乃に気付き、ちょっと持ってて、とカメラを預けたかと思うと自分の上着を脱ぎはじめた。宙でばたばたと数回はたいたそれを、カメラと引き換えに佳乃に手渡す。
「はい。また風邪ひいたら困るだろ? オレそれほど寒くないし、着てていいよ」
「ありがとう!」
この気遣いの細やかさ、普通の男子などとは比ぶべくもない。羽織ってみるとさすがに大きくて袖から指先が覗くのが精一杯だったが、それもまた初めての経験で、佳乃は緩む頬をおさえながら忍の撮影風景を眺めていた。
(ああ幸せ……誘って良かった。もういいよ、風邪でも何でもどんと来い!)
「佳乃ー!」
うきうきとした気分で振り返ったとき、夕子が叫びながらすごい剣幕で走ってくるのが見えた。あっという間に階段を駆け上がってきた夕子は、佳乃にかぶりつくような勢いで捲し立てた。
「うわああん佳乃、見ちゃったよ見ちゃったよどうしよう、花乃と神崎くん!」
「いやあたし見ちゃってないけど」
「すごいんだってば、もう、蜜月状態なんだってば! 一体どうなってるのあの二人ー!」
夕子は真っ赤な顔をして息も絶え絶えに二人の様子を語っていたが、いつの間にかその二人を見たときの湯浅栞の錯乱ぶりを嬉々として語り始めていた。よほど胸のすく光景だったらしい。しかし佳乃はそれどころではなかった。
(花乃と神崎が蜜月!? 神崎がもしそうだとしても、花乃まで!? まさか……!)
「超溜飲下るわよあの湯浅の顔! とにかく一度見てみるべきよ、あの雰囲気はただごとじゃないんだってば。あんな優しげな神崎くん初めて見たし――はら?」
夕子は急に目を瞠いて佳乃と忍をまじまじと見つめ、ああと大きく息を吸い込んだ。「ごっめえん、こっちも蜜月だったのか、お邪魔だったわね! じゃ、まあ気にせず仲良くね~♪」
すたこらさっさと軽快なステップで夕子が退散していき、後に残された佳乃と忍は呆然とその後ろ姿を見送りながら、入れ替わりに訪れた奇妙な沈黙に苛まれた。
知らぬ間に染みこんでくる冷気のように、ひんやりとした冷たいものが佳乃の胸を浸していく。薄々気づきかけていた。この醒めるような感覚が、決まったときにだけ訪れることを――でも、知りたくなかった。
「あはは、ホントかな……花乃と神崎が、ねえ」
笑い飛ばすつもりだったのに、声が上擦った。けれど忍はそれにも気付かないような様子でぼんやりと滝を眺めたまま、ぽつりと抑揚のない声で呟いた。
「花乃ちゃんは……拓也のことが好きなのかな」
佳乃は目を閉じた。そして一つ息を吐き出した後、目を開けた。
「さあ――どうなんだろうね」
忍の口から初めて出た「好き」という恋の言葉は、花乃に向けられたものだった。
それに気付いたことで、佳乃の心拍数は一気に上昇した。
嫌な予感が、確信に変わる一歩手前。
恋は、まだ生きている。
「佳乃ちゃーん!」
はっとして我に返ると、生徒たちのあからさまな好奇の視線を浴びながら花乃と拓也がやって来るところだった。佳乃は思わず反射的に忍の前に立ちはだかるようにして、返す言葉もなく二人を迎えた。
花乃の後ろにぴったりと寄り添うようにしてやってきた拓也は、何故か佳乃を見て微かにほほえんだ。いつもの彼には考えられないことだった。
「ここは寒いねえ、まだ9月なのにね。あっ、いいなあ佳乃ちゃん上着貸してもらってる」
「ああ、じゃあ僕ので良ければどうぞ」
すかさず、花乃の肩を包み込むようにして拓也が自分の上着をかぶせる。それを受ける花乃にも昨日までの明らかな戸惑いはなく、心底嬉しそうに笑っている。なるほどこれが夕子の言っていた蜜月ということだったのだ。
目の前でそれを直視してしまった佳乃は、正直言って開いた口がふさがらなくなる程度には動揺した。
(な、何コイツ、花乃の前だと別人みたいに態度変えて! 見せびらかしに来たっての!?)
佳乃は後ずさり、思わず忍の手を引いていた。
これ以上この二人を見ていたくない――いや、見てほしくなかったのだ。
「行こう、福原くん」
せっかくつかめそうなのに。こんなに近くまで、来ることができたのに。
まだ。まだ知りたくない。まだ大丈夫。
(なくしたくない。この手は放さない。絶対に、あきらめたりなんかしない!)
「福原くん」
足を止めて、佳乃は振り返る。どこか色の薄い、怪訝な顔の彼がいる。
(勇気が必要だ……いま言わなければ、きっともう、届かない――)
「聞いて」
どうか、神様。
この恋をたすけてください。
「あたしは、あなたが好きなの」
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