修学旅行・4日目<奈良4>

(ひいい!? なにいまの、なにいまの!)

 佳乃が目を潰さんばかりに擦りまくっているその横で、夕子が酸欠の金魚のように口をパクパクさせながら小声で悲鳴を上げた。

「今の見ちゃいけないものじゃないの!? どうしよう佳乃、見ちゃったよ佳乃!」

「見ちゃったよってあたしもだよ、どうしようったって、どうしようも」

 あり得ない状況に全員がパニックに陥っているその中で、花乃だけが頬を染めながらも何とか正気を保っていた。微かに口の端が引きつっている以外は、どうにか動揺を押し隠している。佳乃は密かに花乃を尊敬しつつ成り行きを見守った。

「あ、ありがとう……ごめんなさい神崎くん」

「いいえ。これ、どうします? 食べます?」

 ずい、とご飯粒のついた人差し指を花乃の口許に差し出しながら真顔で拓也が尋ねた。花乃は一瞬蒼白になり、そのあと手と首を猛スピードで振り乱した。

「いい、いいえっ、結構です!」

「そうですか? では」


 何の躊躇もないごく自然なその仕草は、ごく当たり前のことのように映った。

 けれど徐々に現実に戻るに従って、ことの重大さが飲み込めてくる。それはまさに驚異的出来事のはずだった――拓也が、花乃の頬についていたそれを、自分の口許に持っていって。

 まるでキスをするように、食べてしまったのだから。

 花乃の口はあんぐりと開いて、それきり閉まらなくなった。いつも鈍い鈍いと連呼されていても、さすがにこれは普通ではないとわかっているらしい。相手が普通の男子ならともかく、あの神崎拓也なのだから、余計に信じられないことだった。

「佳乃! 神崎くんて、もしかして花乃のこと……!?」

「えええ!? 知らない知らない知らない! もうどうなってんのかっ」

 夕子に揺さぶられて、まさかという思いと、もしかしたらという思いが佳乃の中で撹拌される。いくら朴念仁とはいえ、花乃の笑顔に本当に陥落したのかもしれないし――そうは考えても、いくら頑張っても拓也が恋する男の子には見えなくて、余計に混乱する。けれど、今日の拓也がおかしいのは一目瞭然だった。

「ね、忍くん、神崎くん明らかにおかしいよね」

 千歌が忍に耳打ちすると、忍は妙な間隔を開けてからのろのろと振り返った。

「え、ああ……うん、おかしい、と思う」

「福原くん?」

 忍らしからぬおざなりな返事に、千歌と夕子は顔を見合わせた。

 そして佳乃も、じわじわと染み入るように溢れる妙な胸騒ぎを感じ取っていた。


 その日の夜。

 胸騒ぎと夕子のしつこい勧めに押されるように、佳乃はありったけの勇気を振り絞って風呂帰りの忍を呼び止めた。急にわき上がってきた行動力の源が、正体不明の焦燥であることには気付きたくなかったので、努めて明るい笑顔を向ける。

「あのね。明日、和歌山一緒に回らない? あの、良かったら……二人で」

「え? うん、もちろんいいよ」

 あまりの即答に喜ぶ暇もなかった。その声の調子からして、特に深く考えていないのだろう。安心したような気が抜けたような気分で佳乃が頷くと、忍は濡れたままの髪をタオルで擦りながら言った。

「拓也もちょうど別の人といくらしいし。明日はよろしくな」

「へ、あ――うん」

 手を振って別れた後、佳乃は思わず立ち止まって考え込んだ。

 佳乃が忍を誘おうと心に決めた決定打は、花乃が明日別の人と行くことになったからでもあった。それを伝えに来た花乃は珍しくどこか困ったような顔をしていたが、その相手は、もしかすると。

(まさか、ホントにそうなの? 冗談じゃなくて、神崎は花乃のことが好きなの?)

 そう考えると、妙に落ち着かなかった。胸の奥の方にある箱が、ことことと独りでに暴れ出しているような感触がする。

 ものすごく気になる、というのが本音だった。



 恋のはじまりは、たったひとりだった。

 さみしい、お願い、どうか振り向いて。

 あなたの声で、あたしの名前を呼んで。

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