ペアレンツロマンス・2

 屋根裏の芳彦の書斎は相変わらず埃まみれだった。まずそのドアを開けたとたんに、足下にもわあと白い霧が舞い上がる。

 佳乃は袖で口許を覆って本棚横の梯子を登り、天窓を開けた。

「一体いつから放ったらかしだったのよ、もう!」

「いつからだっけ。何かすごく久しぶりな気がする。懐かしいなあ」

 暢気なことを言いながら佳乃のあとについてきた芳彦は、古びた表紙の本を一冊手にとって開いた。佳乃の所までかすかに古書独特の黴のにおいが届く。つられて佳乃も国学云々と書かれた一冊を手に取ったが、開く前からあまりの黴臭さに噎せ、慌てて棚に戻した。紙も粉化しそうな有様だ。

「これ全部父さんの本? こんな古い本ばかり……捨てなきゃ片付かないよ」

「そうだなあ、どうしようかなあ。売れないしなあ、ここまで古いと」

 何の回答にもならないことを呟きながら芳彦は嬉しそうに本を閉じ、背表紙を柔らかくなでた。愛おしむようなその仕草に、佳乃は少なからず驚いた。

「もしかして、思い入れがあるの?」

「うん、どれも大切。女々しいけど、捨てられないんだよ。これを見ると、自分がここにいる意味が思い出せる……あの頃の決意を思い出せるからね」

 そこでやっと佳乃は父親の意図に気付いた。目的は掃除ではなく、自分の転機を娘に聞かせるために、佳乃はここに呼ばれたのだ。いつ自分の迷いを気付かれたのか見当もつかなかったが、佳乃は素直に尋ねた。

「父さんの夢は何だったの?」

 待ってました、と言わんばかりの笑顔が佳乃を迎えた。

「学者だよ。この本も全部、教わった教授から譲っていただいたものなんだ。子供の時からずっと夢だった。死ぬまで好きなことを研究して生きていけたらいいって思ってたからね」

「……どうして、それをあきらめたの?」

 さりげなさを装った佳乃の問いに、芳彦は微かに眉を寄せて微笑んだ。その笑顔が誰かと重なる。

「あきらめたとも、言えるかもしれないね。いや、きっと誰もがそう思っているだろう。でも不思議と、自分では挫折した気分はなかった。夢が変わったと思った。紫乃さんと出逢って、彼女が僕の夢になったんだ」

 時がさかのぼる。父親から一人の男性へと変わる言葉に、佳乃は驚きながらも感動を覚えた。あたりまえだけれど、自分の両親にも恋があったこと、そしてそれが夢を変えるほどの力を持っていたこと。佳乃の胸に宿った初恋は、綿々と受け継がれてきた感情であるということ――

 普段、花乃の借りてきたDVDでこんなセリフを聞けば、背中のむずがゆさに耐えきれずすぐに席を外すような佳乃だった。だが不思議と、今は素直に聞いていられる。

「彼女を幸せにしたいと思った。そのために、普通の会社員として生きることに決めたんだ。下手をすれば死ぬまで苦労を重ねるできそこないの学者になっても、彼女を実質的に幸せにすることはできないと思った。紫乃さんはそれでもいいと言ってくれたけどね……」

 言い訳に聞こえないわけではなかった。けれど、佳乃はそれを信じたいと思った。

(たったひとり、夢になるひと。母さんは父さんの……一生の夢になったんだ)

 そして、どんな境遇でもそばにいて、一緒に歩いていけること――きっとそれが母さんの夢なんだと佳乃は思った。

 二人の恋は、恵まれてはぐくまれた幸せな恋だったんだろう。


(あたしの、恋。そして夢)

「……見つかるかな、何よりも大切にしたいものが、あたしにも」

 佳乃がぽつりと尋ねると、芳彦は力強く頷いた。

「ああ、絶対に見つかるよ。仕事を選ぶにしろ何を選ぶにしろ、それは佳乃さんの夢なんだ。佳乃さんがまだ夢を見つけていないなら、これから歩く道はきっと夢だらけだなあ」

 あまりに楽しそうに言う芳彦に、佳乃もつられて微笑んだ。

「そんな見方もあるのね。夢だらけかあ」

「うん、その中で一番大事にしたいと思ったものが、一生の伴侶なんじゃないかな。大丈夫、佳乃さんも花乃さんも父さんの自慢の夢なんだから。どんな道を選んでも、二人は正しいと思うよ」

 差し出された手を取って梯子を降りる。白っぽくなった床に、月明かりが照らす陰がいつの間にかぼんやりと伸びていた。

 佳乃ははにかみながら笑った。

「父さんは全然変わってないんだね。あたしたちが小さい頃と一緒だ。今でも、母さんのこと好きでしょう?」

 そう言うと、芳彦はどんと力強く胸元を叩いた。

「あったりまえ。何たって紫乃さんは運命の人なんだから」

「ウンメイ? あはははっ、はずかしいー!」

 これには佳乃もこらえきれず、思い切り吹き出した。

 そんな娘を見て、芳彦はその頭をつかまえてぐしゃぐしゃとかき回す。ほこりまみれになるのもかまわず、はしゃぎながらもつれるようにしてドアまでたどり着いた時、芳彦は子供のような悪戯顔で言った。

「別に信じなくてもいいぞ、これは紫乃さんと二人だけの秘密なんだから」

「うわっ、なによ気になるじゃない! 子供にも言えないっていうの? どんな風にウンメイ感じたかくらいは聞いてあげてもいいよ?」

 顔を見合わせて、また二人でげらげらと笑う。今日一日で奇妙なほどすべてが吹っ切れたと佳乃は感じていた。さすがというか何というか、あの母の伴侶で、花乃と自分の親父なだけはある。

「そうだなあ、やっぱり出会いだな」

「ええ?」

 薄く笑んで、ドアを開けながら芳彦は青年から父親へと再び顔を変える。

 その彼の最後の一言は。

「高校の修学旅行。そう、僕たちは京都で出逢ったんだ」


 屋根裏から降りた佳乃を迎えたのは、花乃の笑顔だった。

「どうだった? 佳乃ちゃん。パパと話すの久しぶりでしょう?」

「花乃……まさかあんたが仕組んだの?」

 佳乃が呆然として尋ねると、花乃は満面の笑顔で笑った。

 暖かで柔らかい、けして誰にもまねの出来ない花乃の笑顔が自分に向けられることをこんなに幸せに感じるのは久しぶりだった。

「仕組んだなんて、人聞き悪いなー。わたしじゃ力になれないから、パパの力を借りようと思ったの。パパならきっと、佳乃ちゃんの悩みを解ってあげられるとおもったんだあ」

 自分のことよりも嬉しそうに笑う花乃を見て、佳乃は胸が詰まった。

(ううん、花乃は本当に頼りになる。……誰よりもお姉ちゃんらしいよ)

「父さんは変わってなかった。あたしが変わっただけなんだ。もう子供の頃みたいに素直じゃないし、きれいなままじゃいられない。でも信じてるって言ってくれたから頑張るよ。心配してくれてありがとう、花乃。……よーしっ、あたし、大学を目指すわ!」

 佳乃は握り拳をつくり、花乃に向けて大きくガッツポーズを決めてみせた。そして部屋のドアを開けて飛び込む直前に、ふと振り返る。

「花乃、あたし頑張るから! 勉強も、それから―――」

 口許に人差し指を寄せて意味ありげな笑みを浮かべ、佳乃は勢いよくドアをしめた。

(……? なあに、どういう意味だろう……)

 奇妙なその仕草の意味をしばらく廊下に立って考えていた花乃は、結局、首をひねりながら階下へ降りていった。

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