接近遭遇・1
佳乃の残りの夏休みは、猛勉強の日々だった。
それまで消沈しきっていたやる気に一気に炎が燃え移り、傍から見ている家族などはこのまま燃え尽きてしまうんではなかろうかと心配するほど朝から晩まで勉強。そのおかげか、やや遅れ気味だった予備校の仕上げ模試では、適当に書いた有名国立志望ランクでAを連発するほどにパワーアップしてしまっていた。
たったひとつ、やる気が違うだけでこんなにも変わるものなのだ――佳乃は意気揚揚と充実した毎日を送る中で実感していた。
けれど、たったひとつ気にかかること。それは、神崎拓也との一件のこと。
そしてそれだけを心のささくれに引っ掛けたまま、新学期をむかえることになる。
「やっほー、佳乃! うわっあんた相変わらず白いわね、ホワイティー!」
「……何アンタ」
教室に入るや否や、異様な高さのテンションで飛びかかってきた夕子に、佳乃は白い目で一線を引いた。夏服の黒いセーラーシャツから伸びる腕は、制服の色と遜色ないほど真っ黒になっている。その手でごそごそとかばんの中を引っ掻き回していた夕子は、やっとのことで大きな袋を取り出した。
「これ、おみやげ! ありがたく頂きなさい!」
差し出された袋には真っ赤なハイビスカスのプリント。中を覗き見ると、目がちかちかするほど派手なアロハシャツと何度か見た覚えのあるマカデミアチョコレートが剥き出しで入っていた。一目瞭然と言うことわざはこのためにあるようなものだ。
「ハワイ……。ていうかこれを、あたしに着ろと……?」
「楽しかったわよ~、あれぞまさにビーチリゾートよね! 海は綺麗だしもう最高! アロハオエ~ん♪」
「……」
ワイキキだかホノルルだかに魂を落としてきたらしい夕子を教室に置き去りにして、佳乃は始業式のために早々と廊下に出た。とそこで、ばったりと忍に対面した。
「あ、おはよう関口さ――じゃなくて、佳乃ちゃん」
「おはよ、福原くん」
2日の事は忘れたかのように明るく挨拶を交わす。そんななにげない忍の優しさが、佳乃には何よりもありがたかった。
自然と二人で並んで歩きながら、忍が笑いかけてくる。「早速だけど今日からまた集まりがあるんだ。もう旅行まで一ヶ月もないしね、これから大変だな」
「そうだね……」
佳乃は曖昧に微笑んだ。忍に逢う回数が増えるのはとても嬉しかった。
だが、忍にはもれなくヤツがついてくる。
(神崎、今日来てるよね。やっぱり顔を合わせなきゃいけないのか……)
どんな顔をして会えと言うのだ。たしかに反省はしているけれど、それとこれとは話が別で。佳乃の表情がどんどん曇って行くのに気づいて、忍はその頭をぽんと軽く叩いた。
「大丈夫だよ。俺もフォローするから」
頬を寄せてささやいて、忍は講堂へ駆け去っていった。佳乃は耳元を押さえたまま、行き交う生徒たちの人波の中で真っ赤になって呆然と立ち尽くした。
(恋って、こわい……あたし、心臓発作で死んでしまうかも)
始業式の講堂。久しぶりに会った級友たちが笑いさざめく中、佳乃はまるで小心者の犯罪者のごとき怪しい首の動きを披露しながら、辺りを見まわしてはため息をついていた。そんなときに突然背後から肩を叩かれようものなら。
「ぎゃああ!」
「ひゃああ!」
絶叫の輪唱が響き、一瞬佳乃の回りだけしんと静かになった。慌てて振り向いた先にいたのは、胸元を押さえて肩で息をしている翔子だった。
「び、びっくりした。いきなり叫ばないでよ佳乃ちゃん! 私まで叫んじゃったじゃない」
相変わらず元気なポニーテールを見て、佳乃はほっと息をつく。
「翔子ちゃん。久しぶり」
「今日委員会あるんだってね、聞いた?」
「うん、もうすぐだもんね修学旅行。翔子ちゃんはどこ行くか決めた?」
佳乃が尋ねると、翔子は少し顔を赤らめてぽそぽそと呟いた。
「内緒よ? あのね、吉村くんと、鞍馬山でも行こうかって言ってるの」
「ええ? 鞍馬って、なんかすごいマイナーなところじゃない?」
「ああ見えてあの人、オカルト研究部なの……。でも貴船辺りは川床とか、美味しい懐石料理とか多いらしいし。それに貴船は縁結びでも有名らしいし、けっこう穴場みたいだよ?」
「ふうん……」
貴船神社って縁結びだけだったかな、と佳乃がぼんやりと立ち読みのガイドブックの内容を思い出そうとしたとき、翔子は突然ぐいと佳乃の首根っこを掴んで引き寄せた。
「で、佳乃ちゃんはどうするのよ! 誰と回るの?」
「へ? そりゃあ、夕子とか花乃とかかな」
翔子は一瞬、ものすごく不満そうな顔をしたように見えた。だがすぐに明朗な笑顔を浮かべると、佳乃の首の後ろを掴んだままこそばゆい声でささやいた。
「福原くんを誘いなよ! 絶対チャンスだって、ね」
「ひい! そ、そんなつもりは全然、ちっとも、これっぽっちもないよ!」
佳乃は慌てて翔子の手を振り払って、逃げるようにその場を退散した。
そろそろ大多数の生徒が講堂に集まってきたようで、先ほどまでは見えたクラスメイトの顔も今では見えなくなっていた。
「ええと、3組は――」
どん。
「わうっ、ごめんなさ……」
「いえ、こちらこそ……」
誰かの肩に頭をぶつけて、同時に交わす声。
だがその声が記憶の在り処に辿りついたとき、佳乃の体は硬直した。
―――神崎 拓也。
佳乃は後ずさった。頭の中が真っ白になって、いつもなら放っておいても口から勝手に飛び出す憎まれ口が、今日はいつまでたっても出てこなかった。視線を絡ませるだけで、耳から、あたりから、喧騒がゆっくりと引いていく。
拓也はまっすぐに佳乃を見ていた。眼鏡の奥の瞳が何かを訴えようとして大きく瞠かれ、佳乃もそれに応えるように強くその目を見返して。
それでも双方、何一つ声にすることができない。
(のどが凍る……声が出ない)
どうしてこんなに動揺するのか、自分でも解らなかった。それはむしろ怯えに近かった。
拓也の瞠かれた瞳が、ゆっくりと閉じられる。
そして二人は何事もなかったかのように、すれ違った。
心に咲く花に降る、氷の砂。
悲哀と絶望の、つめたい雨。
(どうか、枯らさないで……)
この恋を、枯らさないで。
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