ペアレンツロマンス・1

 ついに、夕子の言う「それ」がきた。

 夕子は、それが来たときにはびっくりするって言っていたけれど、あたしは驚かなかった。

 とても静かだった。静かすぎるくらいに。

 けれど確かに、そのときあたしの世界は変わった。


「佳乃ちゃん! いるんでしょ、開けるよっ」

 珍しくノックもせず、少し膨張したような声で呼びかけながら佳乃の部屋に入り込んできたのは、駅で別れて以来の花乃だった。一張羅を着替えもせずに玄関からそのまま駆け上がってきたらしい。ベッドにうつ伏せになっていた佳乃は、物憂げに顔を上げて花乃を見た。

「突然帰るなんてひどいよ。みんな心配したんだよ! 携帯もつながらないし……」

「ごめん……疲れちゃって。まだ早いじゃない、花乃はもっとみんなで遊んでくればよかったのに。せっかくの休みなんだから」

 佳乃が反省の色の薄い口調で返すと、花乃はぷりぷりと頬を膨らませて言い募った。「だって3人も帰っちゃったらつまんないんだもん」

「さんにん?」

 佳乃はおうむ返しに呟いた。誰かもう一人、と考えかけてそれはすぐに予想できたが、あえて聞く必要もないので、佳乃は再び枕に顔を突っ伏して呻いた。

「あたし疲れたの、それだけよ……いろんなことがあって。もう休みたい。ひとりにして」

「佳乃ちゃん」

 本人にまったく深い意図はないとしても、佳乃が花乃を拒絶するのは初めてのことだった。何かをこらえるように唇を噛み、それでも花乃は小さな声で食い下がった。

「変だよ……。最近の佳乃ちゃん、ずっとおかしいよ。いろんなことって何? わたしにも言えないようなこと? 最近の佳乃ちゃん、わたしとは違うものを見てる。何がいやなのか、言ってくれなきゃ解らないよ……」

 花乃は鋭かった。佳乃の不安定な心を誰よりも的確に感じ取っているのは双子の片割れゆえだろうが、その具体的な内容までは伝わらない。それが余計に花乃を不安にさせているようだった。

 佳乃は花乃のもどかしさを感じながらも、何も言い返さずに俯いていた。

「わたしだって力になりたいよ。だってわたし、佳乃ちゃんのお姉さんなんだよ……一応。そ、そりゃ佳乃ちゃんに比べたらドジだしバカだし間抜けだし、運動神経もないし、た、頼りないし、佳乃ちゃんの方がよっぽどお姉さんみたいだけど、けど、けどねわたしだって佳乃ちゃんより」

 より――より。そこで花乃の言葉はとぎれた。いくら頑張っても、佳乃より勝っている箇所を一つも見つけだせない。

 イコール、頼りにならない、イコール、姉失格。

 漂う気まずい沈黙。

「……うう、やっぱりいいですぅ……」

 自分で自分の首を締め上げ、疲れ果てた花乃がすごすごと引き返そうとしたところで、佳乃はようやく重い首をもたげて花乃を呼び止めた。

「ありがとう。ごめんね、おねえちゃん」

 小学校以来、名前で呼び合う仲になっていた。その佳乃が、いま何の皮肉も込めずに花乃のことをおねえちゃんと呼んだ。

 花乃は大きく目を見開き、そして決意を込めて唇を噛みしめた。


 それから一週間。相変わらず真昼の暑さは連日最高気温を塗り替えていく。

 どこまで上がれば気が済むんだ、とぼやきながらも佳乃は日々都心の予備校まで通い続けていた。特に意欲を持っているわけでもなく、ただやることがないから今日も行こうかな、と考えて繰り返される毎日だった。こういうのをスランプというのだろうか――勉強にもスランプなんてあるのだろうか。そんなことを考えながら、いつものように気力だけを使い果たしてやっと家路についた佳乃を待ち受けていたのは、思いがけない人物だった。

「お帰り、佳乃さん」

 家の前で、住宅地には相当不似合いな格好をした男が、ピンクのぞうさんじょうろを振っている。よく見ると真夏の残照を浴びて黒々と輝いているのは、スーツを着た佳乃の父親、芳彦だった。

「え、父さん? 何やってるのそんな格好で……おまけにそのじょうろ……」

 佳乃が呆れ返って駆け寄ると、父親は見るからに暑そうな格好をしているにもかかわらず、まるで涼風でも受けたような顔をして爽やかに振り返った。久々に見るせいか、やたら鼻につく爽やかさだった。

「……父さんはいつ見ても涼しそうな顔で、いいわね」

 佳乃は微かにため息をついた。

 不必要に爽やかで、いつまでも青年のような父親と、めいっぱい若作りの母親。そしてその二人から生まれた双子は、ダブルでその血をくらったせいで不本意なほど童顔になってしまったのだった。それを秘かなコンプレックスにしている佳乃は、いつも引き締めた表情を心がけているのだが、常ににこにこふわふわしている花乃などは、最悪小学生に間違えられることすらある。どちらか片方の血で充分だったのに、と恨めしく父親の顔を見上げると、芳彦はやけに嬉しそうに佳乃の顔を覗き込んだ。

「久々に仕事早く切り上げて帰ってきたら、母さんに花の水やり任されちゃってね」

「あ、そう……」

 芳彦の性格はどこか花乃に通じる。いつも朗らかでいかにも平和そうな坊ちゃん顔なのだが、実のところは苦学生から飛躍した敏腕のビジネスマンだった。本人曰く「いやあ、窓際で何とか頑張ってるよ」などとのたまっているが、会社では商談難破時のリーサルウエポンなどと呼ばれているのを佳乃は知っている。この協調してこそ意味をなす人あたりと実務能力は、双子にはこれまた極端に、片方ずつまっぷたつに振り分けられてしまったのだが。

「どうしたの、珍しいね父さんが早く帰ってくるなんて」

「うん、だってほら。全然話す時間もなかったしなあ、たまにはと思って」

 佳乃は眉をひそめた。父親が何の前触れもなくこんなことを言いだすのは初めてだった。

「誰と話すの? ああ、さてはもうすぐ誕生日だからってプレゼントの話?」

 芳彦は肩をすくめた。骨張った大きな手が、佳乃の頭にぽんと乗せられる。

「父さんが話したいのは、佳乃のことだよ。さて、水やりも終わったし、久々に屋根裏の掃除でもするかな。手伝ってくれるかな、佳乃さん?」

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