期末考査とアンノウン

 五日間の期末テストが終わった。

 最終日に花乃と一緒に家へ帰る道すがら、佳乃は浮かない顔でぼやいた。

「今回はダメかもしれない」

「どうして? 佳乃ちゃんいつもみたいにずっとお部屋にこもってたじゃない。勉強してなかったの?」

「ううん、したよ。いつもみたいに……ずっと机に向かってた」

 ただ、そう。思い出せば、あまり手は動いていなかったような気がする。それどころか、考えていることもほとんどが別のことだった。その内容といえば、とても花乃には言えそうもないようなことで。

(……もうやだ、あたし)

 落ちこんでいるのに顔がまた熱くなってくる。ぼんやりと一人になったときに思い出すのは、必ずと言っていいほどあの放課後のことだった。本屋、電車、喫茶店、その別れるまでの忍の表情や交わした言葉ばかりがずっと佳乃の頭の中で何度も何度もよみがえっては消えた。

「佳乃ちゃん、最近変だよ。何か心配事でもあるの? 具合でも悪い?」

 足元にためいきばかり落としている佳乃の顔を、花乃が心配そうに覗き込む。額をこつんと合わせてくる姉が何故だか可愛くて、佳乃はその腕にしがみついて微笑んだ。

「何でもないよ、大丈夫。へへっ、花乃ってばカワイイっ」


 その一週間後、大掲示板に貼り出された順位を見たときも、佳乃は大して動じなかった。やっぱり――と心のどこかで思った。予想は出来ていたのだ、あの位置に――あの忌まわしい位置に自分の名前があることなど。そして自分の名前の上にあるであろう名前のことも。

(ショックなんかじゃないわ……だって自分の積み木を自分で壊したんだもの)

 前のような怒りも苛立ちもわいてこない。ただ無性に疲弊して、自分の不甲斐なさを痛感することで精一杯だった。だから背後から声が聞こえたときも、振り向く気さえ起こらなかった。

「二位ですね、関口さん」

 拓也だった。迷ったあげく、佳乃は力無い声で返した。

「一位おめでとう。よかったわね、あたしに勝てて。さぞご満足でしょう」

 拓也からの返事はなかった。そこで佳乃は自分の言葉の齟齬に気づき、目を伏せた。勝てて満足するのは自分であって、拓也ではない――拓也は佳乃に負けたことなど一度もないのだから。

(ショックなんかじゃないわ)

 なのにひどく胸が痛かった。拓也がじっと自分を見ていることを知りながら、佳乃は彼の視線を受け止めることが出来なかった。目を合わせると、とてもひどいことを言ってしまいそうだった。

「――僅差でしたね。お互い危なかった」

「え?」

 佳乃は顔を上げ、名前の横に申し訳程度に添えられた点数を比べてみて驚いた。

 1点差だった。おまけに二人とも前回の模試より10点以上下がっている。三位以下も僅差の争いで、運が悪ければ二位どころじゃなかったかもしれないのだ。

「なに? なんであんたまでそんなに下がったの?」

 拓也はきびすを返し、去り際に背を向けたまま呟いた。

「お互い様です。次は万全の状態で闘いたいものですね」


(あいつにも悩みとかあるのかしら……)

 悔しいことだが、佳乃から見ても拓也は人よりも数倍恵まれた立場であるように見えた。顔は無意味に良いし、成績はむやみに良いし、なぜか割と人望もあるし、家と母親はドラマ並に素敵だ。悪いのは性格だけで、しかも本人にその自覚がないのであれば、悩むことなど何もないのではないかと佳乃は思う。

(ま、あたしには関係ないけどね)

 拓也の後ろ姿から目をそらして、佳乃は再び掲示板を見上げた。

 目下の問題は、佳乃が自分の手の中でもてあましている正体不明の感情だった。



 一学期最後の委員会は、終業式とHRのあとに召集された。

「スケジュールと各地のホテルが決まったので報告しておこうと思う。手元のプリントを見てくれ」

 顧問の瀬田が久々に主導権を握った会になったが、それはすでに委員たちの目がプリントに釘付けだったせいでもあった。連続する七つの枠の中に、移動予定や集合時間が事細かに記されている。京都着後、初日と二日目は京都観光、三日目を神戸、四日目を奈良、五日目を和歌山、六日目は大阪、そして七日目に再び京都に戻って新幹線で帰るというスケジュールだった。

「自由行動は二日目の京都と三日目の神戸だ。各自担任に行動予定表を提出してもらうが、特にグループは決めない。個人で回るならそれもかまわないが、くれぐれも迷子にならないようにクラスの生徒に伝えてくれ」


 いつもよりよほどスムーズに委員会が終わっても、委員たちはまだ帰ろうとしなかった。配られたプリントの日程に沿って、おのおのが目を輝かせて話し始めたからだった。

「ねえ佳乃ちゃん、京都と神戸だって。どこ行こうかなあ、楽しみだねえ」

 花乃がうきうきした様子で佳乃の方に向かうと、その隣に座っていた忍も振り向いた。

「秋の京都はやっぱり嵐山の紅葉じゃないか?」

「え~でも行くのって九月の末でしょ? 紅葉は早いんじゃない?」

 佳乃の脇にいた夕子が身を乗り出してくる。佳乃とは正反対に、こういうイベントものにとことん乗りまくるのが松井夕子という人間だった。毎度ながらそれに巻き込まれるのが佳乃で、もう慣れたと言えば慣れたのかもしれない。

 忍は首を傾げて唸る。

「あ、そうか……でもトロッコとか保津川下りとかできるじゃん」

「忍くん、京都に詳しいね! どうしてー?」

 花乃がはしゃいだ声をあげると、忍ははにかんだように笑って佳乃に目配せをした。

 これもまたふいうち。

(ああ、ま、まって)

 意識するまいと踏ん張っていたのに、そんなふいうちな笑顔はひどい――ああ、ダメだ顔が熱い、心臓がばくばくする。一体どうしてしまったのだろう、あたしは。

「あ、でもたしか保津川下りって中学の時行ったよ。川の水が増水してて、すっごい面白かったの。ね、佳乃ちゃん♪」

「……全然」

 佳乃はすわった目で花乃を見返した。その場にいた全員が静まりかえり、やがて花乃がああ、と声を上げた。

「そうそう佳乃ちゃんってああいうの弱いんだ。遊園地とかも全然行かないもんね、昔観覧車だけで泣いちゃってそれ以来。すっかり忘れちゃってたよ」

「うわっ、花乃……」

 よりにもよってこの場で言わなくても、と思ったときにはもう遅かった。委員たちは一斉にげらげらと笑い出していた。拓也までもが横を向いて吹き出したのを見た佳乃は、悔しさと恥ずかしさで真っ赤になった。「笑わないでよ!」

 忍はひとしきり笑ったあと、その場を取りなすように柔らかに言った。

「あはは、ごめんごめん! だってほら、何かすごい可愛いんだもん、なあ」


 だから、これはひどい。

 心の準備というのが必要なときだって、ときにはあるのだ――


 ただでさえ赤かった顔色が、耳まで朱を散らしたようにまんべんなく鮮やかに色づいた。それはもう見事に佳乃の顔色が変わったのを、委員の誰もが見逃さなかった。口舌が天の邪鬼な割に、顔全体がものすごく正直に出来ていることを、誰もが知ってしまった。――忍と花乃を除いて。

「福原くんってどうしてこう、鈍いかなあ……女泣かせよね」

「ホント、殺し文句を素で言っておきながら自分で気づいてないところがもう」

 ひそひそとよそのクラスの女子が囁きあう。居たたまれなくなって佳乃が俯くと、花乃はびっくりしたように顔をのぞき込んできた。

「佳乃ちゃん、どうしたの? 顔赤いよ、しんどいの?」

「うわっほんとだ、風邪じゃないか? 大丈夫?」

 目を丸くした花乃と原因張本人の忍に交互に顔をのぞき込まれて、嬉しいやら悲しいやらバカみたいやらで、佳乃は泣きたくなった。

 わきでは、夕子と拓也が呆れたようにため息をこぼしていた。

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