夏の日の秘密

「やっと夏休みだね、佳乃ちゃんはなにか夏の予定ある?」

 家に帰って早速恒例のアイスティーを作り始めた花乃が、コンロに火をつけながら尋ねた。

「そりゃまあ一応受験生だしね。予備校に行くよ、明日から三週間」

 タオルで汗を拭きながら佳乃はため息をついた。これからますます暑くなるであろう直射日光の下、都心まで出向くのはかなり気が滅入るが、これが受験生の試練だというなら仕方がないとも思う。

「佳乃ちゃんは頑張りやさんだね、すごいなあ。将来何になるの?」

「え……」

 ふいに尋ねられて佳乃は言い淀んだ。これといって、何も浮かんでこない。

「さあ、わからない。どこの大学に行くかも……まだ」

 今更ながら気づいた事実を佳乃は呆然と受け止めた。今までの勉強に費やしてきたあらゆる時間をひとつの「結果」に導くとき、それが今。人はよく『人生の岐路』というけれど、それがもう目の前に来ているのだ。だが佳乃はまだ道しるべを一つも見いだせなかった。

「そっかあ、でも佳乃ちゃんなら大丈夫だよ、どこの大学だって入れるし…」

「……あたしちょっと休むね」

「佳乃ちゃん?」

 怪訝な顔の花乃をリビングに残して自分の部屋に飛び込んだ佳乃は、無意識のうちに机に向かって頬杖をついていた。そうして無意識のうちにペンを手にとり参考書を開いてしまうような、それだけの長い間繰り返されてきた習慣。

(あたし、何のために今まで勉強してたんだろう……)

 昔から一目置かれることが好きだった。勉強さえ出来れば、それだけで全てが好転したものだ。ほかの誰にもバカにされないし、大人たちは褒めちぎってくれる。

(くせになってたんだもんなあ)

 心に漠然と思い描いていた、自分の描く「夢」……それはヴェールを剥がしてみれば、ただの虚栄心の塊だったのかもしれない。だから初めて味わった屈辱があんなにも辛くて悔しかったのだ。

(進路かあ……)



 佳乃の心にもやもやと立ちこめた輪郭のない暗雲は、しばらく経っても晴れなかった。

(あーあ……やる気出ない)

 駅のホーム。日陰のベンチに座って空を見上げると、雲一つない晴天。目線を下げると、膝の上には開きっぱなしのスケジュール帳に、鉛筆で殴り書いた予備校の予約がずらりと並んでいる。ただ一つ鮮やかなピンクのペンで書かれたのは8月2日の「U公園・11時」だけだった。

 ホームのアナウンスで、佳乃はスケジュール帳を閉じて鞄に押しこみ立ち上がった。今日もこれから電車に乗って市街の予備校へ行かなくてはならない。

 冷房の利きすぎた車内で身震いしながら、佳乃はぼんやりと窓の外を流れる景色を眺めた。今は、このいろいろなことの詰め合わされた心の中を整理する時間が欲しかった。

(……次の駅で、降りちゃおうかな)


“風野丘、風野丘”

 車内アナウンスと同時に開いた扉から、ごく自然に佳乃は降り立った。

 こざっぱりとしたその駅のホームには何となく見覚えがあった。それもそのはず、拓也の喫茶店のある町だったのだ。発車した電車の追い風に乱される髪を押さえてそれを見送りながら、佳乃はもう一度空を仰いだ。

「やっちゃった、初サボり。ああ、いい天気!」


 改札を抜けて適当に歩き出した佳乃は、早くも自分の軽はずみな行動を後悔していた。

(あ――暑いっ! 暑い暑い暑い! しまった、冷房地獄の予備校に合わせて厚手のシャツとジーンズなんか着たもんだから!)

 じりじりと容赦なく照りつけてくる太陽は、高級住宅の建ち並ぶ静かなコンクリートにも揺らめく蜃気楼を立ち上らせる。丘と名づくだけあってやたらと緩急のある道をしばらく歩くだけで、佳乃はもうへとへとになっていた。

(や……休みたい……でもここ住宅街だから店が見あたらない……)

 公園脇の道を通り過ぎて進むうちに、佳乃は見覚えのある街頭と煉瓦の並木道を歩いていた。真夏のこの時刻はさすがに人通りが少なく、街路樹に取りすがってわめき続ける蝉の声だけが耳にわんわんと響いてくる。このままじゃ日射病になりそうだと思ったところで、並木の陰から赤い屋根が見えた。

(……神崎の喫茶店だ。うう、どうしよう……休憩したい、でもなあ)

 逡巡しながらも店に近付きかけ、佳乃は思わず足を止めた。


「帰って下さい! そんなつもりはこれっぽっちもありません!」

 蝉の声に混じって聞こえてくるのは苗子の声だった。佳乃は驚いて、木の陰に身を寄せた。

 喫茶店の前で、エプロン姿の苗子と誰かが言い争っている。後ろ姿だけ見ると、相手は和服の老女のようだった。この暑い中和服を一糸乱れず着こなしている老女は、明らかに取り乱している苗子に涼やかな声で言い放った。

「あの子はもうあなたのものではありません。いい加減になさい」

「違います――あの子は誰のものでもない!」

「そうよ? あの子が選ぶんですよ……エマも待っている、そう伝えてちょうだい」

 老女が背を向けると、苗子は唇をかみしめ、そして叫んだ。

「もう二度と来ないで! 拓也はあの人には渡さない!」


(な――な、なに今の………)

 すっかり狼狽した佳乃は、街路樹に背を押しつけたまま胸元を押さえた。

 あの明るかった苗子が、悲痛な声で思いがけない言葉を叫んでいた。それはきっと、絶対に自分なんかが聞いてはいけない事だったのだろうということは解った。けれど聞いてしまったものはもうどうしようもなくて。

(神崎拓也……アイツ、一体何者なの?)



 夏の日の、アイツの秘密。

 それが高校最後の夏休みの幕開けだった。

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