スクランブルデート・3

「まあまあまあ、座って座って、はい」

 相変わらずにこにこと微笑んだまま忍に言われ、佳乃は呆然と着座した。

 セピア色の感傷もこの一瞬で全て吹っ飛び、残ったのはただの混乱と恐ろしい事実だけだった。

「ここが……神崎拓也の家?」

 おそるおそる振り返ると、拓也はいつのまにかカウンターに入って黙々と作業をしていた。コーヒーサーバーの準備をし、合間にワッフル生地を溶き、冷蔵庫から冷えた生クリームを取り出して泡立てて。その見事なまでの手さばきは、普段寡黙に本ばかり読んでいる彼からは想像もつかない。

「はあ……けっこう人って、意外な一面持ち合わせてるものなのね」

 佳乃が妙に感慨深く呟いたので、忍は興味をそそられたようだった。「オレも初めて見たときはびっくりしたけど。関口さんも何か特技持ってるの? それとも誰かそういう人知ってるの?」

「うん、花乃がそうなの。あの子の紅茶は、そんじょそこらの喫茶店じゃ飲めないくらい美味しいんだから」

 佳乃が少し得意げに答えると、忍は目をみひらいて感嘆の声を上げた。

「へえー、あの関口さ……ああ、どっちもだな。花乃ちゃんって、何かいつもほわほわしてるから意外。紅茶って結構淹れ方にも気を使うんだろ?」

(花乃、ちゃん……)


「……どうかした? 関口さん」

 佳乃は弾かれたように顔を上げて忍を見返した。

「え、なに? ――あ、うんそう紅茶って結構茶葉から淹れるの難しいのよね、あたしがやってもさっぱりだもん。花乃はなんか、意外と変なところが器用だったりして」

 おかしなほど勝手に回る呂律に呆れながら佳乃は喋り続けた。さっきなにか、とても重いイヤな気分になったような気がした。正直、よくわからなかった。

(花乃の話は大好きなのに。花乃のことを人に話すときは、いつでも誇らしくて何よりも自慢だったのに。なのになぜ突然あんな変な気分になったんだろう)

 靄のかかった釈然としない気分を吹き飛ばすために、佳乃はぽんと手を叩いた。

「ああそうだっ、さっき買ったガイドブックで良さそうなとこ探そうよ」

「あ、そうだね」

 忍が鞄の中から買ったばかりの雑誌を取り出す。とそこへ、最初のオーダーを持って拓也がやって来た。

「お待たせしました、アイスコーヒーです」

 口調ばかりは丁寧ながら、相変わらず愛想のかけらもない声でそう言って、拓也は忍の前にグラスを置いた。そして佳乃だけにわかる角度から、じろりと据わった目線をよこした。あからさまにその目は「何でお前がここにいるんだ」と言っていた。いや、拓也の口調なら「どうしてあなたがここにいるんです?」とでも言うのだろうが―――

 いつもなら目線一つに文句を吹っかけるところだが、あいにく場所が悪い。仕方なく佳乃はわき上がる怒りをこらえてそっぽを向いて黙り込んだ。その二人の気配を知ってか知らずか、忍は立ち去ろうとする拓也を呼び止めて雑誌を指し示した。

「時間あるか? ちょっと相談したいことがあるんだけど」

「……仕事中だからあとで」

 素っ気なくそう言って、拓也はまたカウンターへ引っ込んだ。それと入れ替わるようにして拓也の母親が二人のテーブルにやってきた。大きなトレーにやまほどお皿を乗せて、大道芸も真っ青のバランスで颯爽とお辞儀をした彼女は、次々とテーブルにケーキを並べた。

「おまたせ、あなたはアイスティーでよかったかしら。はいミルフィーユ、プリンアラモード、モンブラン、クラシックね。ちょうど全部作り置きがあって良かったわ。ミルフィーユは結構若いお嬢さんに人気があるのよ、気に入ってもらえると嬉しいわあ。ねえところで、お名前教えてよ。拓也の知り合いで女の子が店に来るなんて初めてなんだもの」

 豪速で回る軽快な舌は、とても拓也の母親とは思えない。いやでも、拓也のあの毒舌はコレの遺伝の可能性もあるのだろうか。佳乃の母親さえも凌駕するほどの底抜けの明るさに押され気味になりながら、佳乃は数秒の沈黙の後ようやく尋ねられたことを理解して答えた。

「あ、えと、関口佳乃っていいます。純泉堂高校の3年で、神崎……くんと福原くんとは委員会で同じで、ええっと……お……お世話になっています」

 2カ所舌をかみそうだった。

「まあ、そうなの。うちの子はかわいげがなくて大変でしょう、ごめんなさいね」

 ええまったくです、さすがお母様、よくお解りで。などと答えたいのはやまやまだが、一応良識ある佳乃としては「いいえ」と答えないわけにはいかなかった。聞こえるか聞こえないかの境目のような声だったけれど。

 拓也の母親は胸元まで伸びた栗色の大きなカールをくるんと揺らして微笑んだ。

「一応私も自己紹介しておくわね。おばさんって呼ばれるのあまり好きじゃないのよ。私のことは、苗子って名前で呼んでちょうだい」

 拓也の母親は、おそらく誰が見ても『美人』と賞するであろう笑顔の持ち主だった。かなり若作りの佳乃の母親と比べてもまだ若く見え、艶やかな髪や花柄のエプロンと合わせると30前後がせいぜいだ。薄い口許のあたりがどことなく拓也に似ている気がしないでもない。

「さって、じゃ、お邪魔虫は退散するわね。うふふ、どうぞごゆっくり」

 苗子は含み笑いを浮かべてそそくさと去っていき、テーブルに残された二人の間にはどことなく気まずい空気が漂う。

「さて、じゃあ……食べようか関口さん」

「うん……いただきまーす……」


 だが数秒後には、気まずさなどどこへやら。

 二人はただ必死で並べられた皿を平らげ続けた。

「おいしい、おいしい、何コレ~! さくさく言ってるよミルフィーユ~!」

「じゃあオレこっちのモンブラン一口いただき! ――うんっ、うまい!」

「こっちのプリンも美味しい~! 食べてみて食べてみて!」

 あっという間に、全ての皿は綺麗に白くさらえられていた。思い出すのも恐ろしいほどの量が鳴きぐせの悪いこの腹の中に収まったと考えると鳥肌が立ちそうだったが、いまはとりあえずそんなことを真摯に心配する必要はなかった。とにかく大満足の極致だったのだから。

「お気に召してもらえた?」

 最後にサービスでアイスココアを運んできた苗子が、二人の様子を見て満足げに微笑んだ。少しの懸念もないその顔を見ると、尋ねる必要もなく自分の店のメニューには絶対の自信を持っている事がよくわかった。だが、それが当然だと佳乃は思った。

「はい! 本当に美味しかったです。今まで食べたどのケーキ屋よりも」

 佳乃が正直に答えると、苗子は華やかに破顔した。

「まあっ、ありがとう。ホントに素直でいいお嬢さんねえ、忍くん。うちの子もこれくらい素直で可愛い彼女が出来るといいのだけどね~」

 佳乃は最後までとっておいたモンブランの大きな栗を口に放り入れた直後だったため、再び弁解の機を逸した。いつまで彼女ということになっているのだろう。その扱いが嫌だというわけではないが、拓也の手前さっさとこの誤解を解いてしまわないと学校に広まりでもしたら――

(……ん? でもごちそうになった理由はあたしが福原くんの彼女と思われているからで。てことは、誤解だってしれたら、あたしたち神崎んちで食い逃げ同然っ!?)

「おーい、拓也! こっち来いよ、終わっただろ?」

 青くなった佳乃には気づかずに忍は拓也を呼んだ。拓也は憮然とした表情でテーブルの脇までやって来た。

「確か宿泊施設決まってなかったよな? ガイドブック買ってきたから、コレ見て決めないか?」

 拓也は忍が机の上で広げた雑誌を一瞥して、首を振った。

「遅かったですね。今日瀬田先生に尋ねたところ、去年と同じ施設で決定ということでしたよ。……わざわざご苦労様です」

 佳乃は忍と顔を見合わせて、唖然と口を開けた。完全な無駄骨だ。このままではガイドブックが浮かばれないと思ったのか、忍は素早く話を切り替えた。

「じゃ、じゃあさ、せっかくだから夏休みに下見の旅行とか……」

「いやですね。行きません。だいたい下見に何の意味があるんですか」

 拓也の切り返しは友人にも辛辣だった。忍は返事につまり、うーんと唸って頭を抱えた。

(なによこの態度……これでホント、よく友達がつとまるわね)

 ムカムカしながら佳乃が横目で見ていると、忍は最後の手段とばかりに去りかけた拓也の腕をつかんで言った。

「じゃあっ、せめて夏休み一日くらいさあ、遊ぼうぜ、委員みんなで。な、関口さんも!」

「え……う、うん」

 唐突に話を振られたにも関わらず、考える暇もなく答えが出ていた。こんなことは稀だった。なぜだか、忍に尋ねられれば断ることなど出来ない。あの笑顔に逆らうことなど不可能なのだ。

(なんで?)

 急に、心臓が早鐘を打ち始めた。こんなこと、入学式の宣誓で壇上に立ったとき以来だった。まるで極度の緊張状態。顔全体が、ものすごく、熱い――

(な、なにこれ、なにこれ)

 半ばパニックに陥りかけた佳乃は、慌てて頬を両手でかばった。甘いものの食べ過ぎかもしれない、それともほっぺたがおちる前触れかもしれない、そんなことを本気で考えた。拓也はそんな佳乃をちらりと一瞥し、無表情で忍に向き直って答えた。

「……一日くらいなら、考えておきます」

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