スクランブルデート・1

 修学旅行まで、あと二ヶ月。


「佳乃、旅館の予約のことで委員長が呼んでる!」

「ええ、またぁ? 夕子代わりに聞いてきてよ。あいつと話すと疲れるんだもん」

「それはあんたが喧嘩を売るからでしょ! ほら、行った行った!」

 夕子に背中を押し出されて、佳乃は渋々階上の9組へ向かった。掃除時間の半ば、遊びたい一心でさっさと担当の場所を終わらせた生徒たちは、それぞれ思い思いの場所で短い休みを潰していた。9組も例に漏れず、ざわざわと騒がしい教室で神崎拓也は相変わらず端然と着座していた。

「ああ関口さん。遅かったですね」

「掃除当番だったのよ! 呼び出すくらいならそっちから出向いてよ」

「あいにく僕はあなたほど暇じゃないんです」

「だからあたしは当番だったって言ってるでしょ……」

 毎度毎度怒鳴るのも疲れるので、最近はなるべく声は抑えるようにつとめている。けれどこういう可愛げの微塵もない返答をされると、緩みきった堪忍袋もぶくぶく膨らんでくるというものだ。

「もういい。さっさと用件を言ってよ」

「ああ、二泊目の宿泊施設のことですが……」

 二人が話し合っていると、そこにひょっこり誰かが割り込んできた。顔を上げた佳乃はぎょっとして思わず一歩退いた。思ったよりも近く、というよりほとんど目の前に異性の顔があったからだ。

「お、珍しいな関口さんがここにいるなんて」

「ふっ、福原くん」

 内心慌てふためきながら佳乃は辛うじて平静を装って答えた。「大したことじゃないよ。呼ばれたから来ただけ」

 それを聞いた忍は、少し眉根を寄せて拓也をにらんだ。

「だめだろ、女の子呼びつけるなよ。男の方から出向くのが礼儀ってもんだ。なー、関口さん」

 佳乃は思わず微笑んだ。本当に久しぶりに、心の芯が溶き解れたような気がして自分でも不思議に思った。このひとには、結構意外なちからがあるのかもしれない―――

「へえ」

 急に驚いたような声が聞こえたので、佳乃は忍を見上げた。忍は珍しい流れ星でも見たように目をきらきらさせている。

「関口さんって、笑うと感じが変わるね。いつもがしっかりしてる分、なんか可愛い」

「えっ」

 ふいうち。

 じわじわ、じわじわと。空気中から何かが肌理の中に浸透してくるような感触とともに、驚くほど頬が熱くなった。絶対赤い。それが不思議と自分でもわかっているので、俯いて黙り込むことしかできなかった。こんなことを面と向かって言われたのは初めてで、どんな風に対処すればいいのかわからず佳乃は途方に暮れた。



 まだ知らない。その名を。



「福原くんってさ、いい人よねえ……」

 5限の予鈴とともに教室に戻ってくるなり夢見るような瞳でそう呟いた佳乃に、夕子は目を瞠った。寝ぼけているのでなければ、今のは大変な発言だった。

「あんたが男の子をほめるのを初めて聞いたわ。何かあったの?」

「ううん、べつにぃ……」

 つとめて冷静に夕子が尋ねても、佳乃は相変わらず妙な目つきで天井のあたりを眺めている。頬のあたりがしまりなく緩んでいるのは誰から見ても一目瞭然だった。何もないはずがない。

 夕子はしばらく口を開けて佳乃の視線を追っていたが、やがて驚異的な可能性に気づいた。これはもしかすると。もしかするともしかすることだってあるかもしれない、と。

「佳乃」夕子はばしんと佳乃の肩を叩いた。「オーケー。この夕子さんにまかせなさい」

「へ、何を?」

 我に返った佳乃が尋ねても、夕子は意味深にウフウフと奇妙な笑いを返すだけだった。


 そして放課後。夕子と一緒に昇降口へ向かっていた佳乃は、階段の踊り場で忍が手を振っているのを見つけて仰天した。夕子は怖じ気づきかけた佳乃の手を引いて忍のもとへ駆け寄った。

「ごめんごめん、待ってもらっちゃって」

「いや、いいよ。どこの本屋へ行くつもり?」

「え、へえ?」

 佳乃はわけが分からず、二人を交互に見つめた。夕子の悪戯っぽい笑みから視線を移した先で、忍は意外そうな表情をしていた。「あれ? 関口さん聞いてないの? 松井さんが今日の帰り、宿が決まってないなら本屋に旅行雑誌見に行かないかって……」

 佳乃はものすごい勢いで振り返ったが、そこにいたはずの夕子はすでに昇降口の方で小さな影になっていた。そして軽快に走り去る途中、立ち竦む二人に向かって投げキッスさながらに最後のせりふを放った。

「ごっめえ~ん、あたし急用思い出しちゃったあ! 悪いけど二人で行って~♪」


 雷に打たれたように、佳乃は夕子の挙動不審の意味を理解した。

 あんまりのことで声が出ない。ただ顔だけが、どんどんと熱を持って腫れぼったくなってくるという、どうしようもない状況。

「松井さん、用事なの? じゃあ二人だね?」

 忍が怪訝な顔で佳乃に問いかける。なんと答えていいのかわからず、佳乃は昇降口を見据えて息を吸い込んだ。

「―――…ゆ、ゆ、ゆ」

 夕子の名前を力一杯叫んだとき、もうそこにその姿はなかった。


 時々、おせっかいで向こう見ずな友達を持ったことを死ぬほど後悔する。

 もう友達なんかやめてやると、強く心に誓う羽目になる。


 今の佳乃がまさにそれだった。


「どの辺の宿がいいかなあ。修学旅行での行動はやっぱり京都がメインかな?」

「えっ、あ、うん?」

 本屋の旅行誌コーナーであれこれと最新版のガイドをめくる忍に、佳乃は慌てて相槌を打った。さっきから色々と微笑んで話し掛けてくる忍の言葉も、実際はほとんど耳に入っていなかった。自分でも何がなんだかわからない――あたしはなぜ、ここでこんな風にこの人と二人きりなのだろう。

(どういうつもりだ夕子のヤツ……お、覚えてらっしゃい、あとで首締めてやる)

「うん、やっぱり一冊買っていこう。経費は出るだろうし」

 忍は一人で納得して、すたすたとレジの方へ歩いていった。ついて行きそびれた佳乃は、幾人にも立ち読みされてよれてしまった表紙のガイドを手に取った。明らかにこの東京とは違う場所。景色が鮮やかな色彩をまとって、歴史の上に降り積もっていくところ。京都。景色だけに留まらず、料亭の懐石料理や老舗の洋食がページをめくるたび次から次へとあふれ出てくる。

「お待たせ、買ってきたよ」

 忍が佳乃の肩をぽんと叩いた、その瞬間。それはもう笑えるほどのタイミングで。

 佳乃の腹部から鳥の雛が鳴いた。

「………っっ!」

 佳乃はガイドブックを棚に叩きつけ、慌ててお腹を押さえた。腹で鳥を飼った覚えなどないことなど佳乃が誰よりも知っている。そう、今のは鳥じゃなくて虫――腹の虫……。

(何でいまっ、何で今鳴るのよ、バカバカバカあたしのバカーっ!)

 確かに今日はあちらこちらと走り回ったせいで随分エネルギーを消耗したと思うが、それにしたって二次元の豪勢な食事を見たくらいで反応するような浅ましい腹に育てた覚えはない。

 極度の羞恥と混乱で、佳乃は石のように固まった。忍はぽかんとした顔で佳乃を見ていたが、やがて笑いをこらえるような、ごく微かに震える声で呟いた。「……お腹、減ったなあ。時間あるなら、喫茶店でも寄っていかない? おすすめのお店があるんだ」

 佳乃は忍の細やかな気遣いに心底感謝しながら、真っ赤な顔で小さく頷いた。

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