波乱の実行委員会・2

 もういやだ、と佳乃は思った。それが声にもありありと染み入っていたからか、拓也は眉をひそめて呟くような声で言い返した。

「それはこちらの台詞です。まさかあなたがこんな所にいるとは思いませんでしたよ。勉強はしなくていいんですか? 関口佳乃さん」

 ばん、と机を叩いて佳乃は叫んだ。「フルネームで呼ばないでよっ!」

 思い切り叩きつけたせいで手のひらが猛烈に痛くて、ほとんど八つ当たりの勢いだった。

「フルネームの上に呼び捨てにしているのはどこのどなたでしたっけ」

 しらっと能面顔で返されて言葉をなくした佳乃は、ありったけの苛立ちを込めて拓也を睨み付けた。だめだ、こいつと話しちゃ駄目だ。佳乃は深呼吸をして頭に昇った血を鎮めようと努力しながら、おろおろと二人を見ている花乃をつついた。

「どういうことよ花乃! なんでこいつがここにいるの!」

 花乃は首を振り、心底困ったように佳乃を見上げた。「わたしも知らなかったの、9組の委員が神崎君だったなんて。ごめんなさい佳乃ちゃん」

 花乃に謝られると、もうどこにも怒りの行き場はなくなってしまう。どんどんふくらみ始めた堪忍袋の限界を感じながら、佳乃は大きなため息をついてプリントに目を落とした。イヤなものは無視するに限る、存在を忘れてしまえばこれほど腹が立つこともないだろう……

 だが、邪魔者はすぐ近くにいた。

「ねえっ、ねえねえ佳乃、やっぱり格好いいよ神崎君!」

 無視すると決めたとたんに、隣の夕子がひっきりなしに佳乃の袖を引いた。無視の対象を一人増やして、佳乃はプリントに意識のすべてを注いだ。今日の予定は自己紹介、委員長選出――

「ねえってば! 見てよあの眼鏡の奥の目。ああん、何とかして素顔見たい~。そうだ佳乃っ、もう一度アッパーくらわせて眼鏡割っちゃってよ!」

 堪忍袋の緒が切れた。もともと、堪忍袋の小ささに比例したか細い緒だったのだが。

 佳乃は持っていたプリントを力一杯握りつぶし、立ち上がった。


「あたし、悪いけどやっぱり辞退させてもらうわ」

「佳乃ちゃんっ!?」

 花乃はあわてて立ち上がり、大股で出口に向かう佳乃の後を追った。「待ってよ佳乃ちゃん!」

 悲痛な花乃の声に危うく踏みとどまりそうになるのをこらえて出口のドアを開ける、とそこでいきなり視界がふさがれた。驚いて見上げると、見覚えのある物理教師が立っていた。佳乃がかねてからメタボにもほどがあるだろうと突っ込みたく思っていた教師で、恰幅のよすぎる腹を書類と一緒に抱えて今まさに教室に入ろうとしていたところだったらしい。

「おお、3組の関口か。修実に立候補してくれたそうだな、お前がいれば安心だ。それに9組の神崎までいるしな。生徒会ですら羨ましいと言って――」

「先生、悪いですけどあたし辞退します。じゃ!」

 佳乃は教師の腹を押しのけるようにして教室を出、そのあとは小走りでその場を去った。花乃のことが少々気がかりだったが、夕子がいれば何とかなるだろう。もう一秒も、あいつのそばにはいたくなかった。


「佳乃ちゃん……」

 残された花乃は、佳乃のいなくなった廊下をしばらく見つめた後、しゅんと悄げて席に戻った。

「何だ? 関口は。本当に辞退したのか?」

「……えと、あの……」

 教師の言葉に仕方なく花乃が頷こうとしたときだった。よく通る落ち着いた声が教室に響いた。

「いいえ、保留です。たぶん、次には戻ってくるでしょう」

 自信ありげに眼鏡を押し上げて宣言したのは、神崎拓也だった。


「だーれがあんな奴といっしょにやるかってのよ!」

 ほとんど駆け足で家まで帰ってきた佳乃は、大声で怒鳴りながらベッドの上に倒れこんだ。どれだけ叩いてもこちらに被害のない枕をボカボカと数回殴ったあと、そこら中に舞ったホコリにむせながら布団にもぐりこんだ。

 最近毎日、考えるのも嫌なくらい怒っている自分が情けなかった。けれども寛容になんてなれない。こんなに感情が先走ったことなど、これまでの人生にはなかったのだ。

(疲れてるんだ。きっとそうだ。あいつに煩わされなくなれば、きっと大丈夫……)


 こつんこつん、と軽いノックの音で佳乃は目を開けた。どのくらい寝ていたのだろう。ぼんやり見上げた天井では、カーテンの隙間から入り込んだ朱色の光がちらちらと踊っている。

「佳乃ちゃん? いる? 起きてる?」

「うーん……もう晩ご飯だっけ」

 佳乃はベッドから這い出してドアを開けた。寝起きでちっとも思考が巡らず、辛うじて光の色で夕暮れ頃だということを察していただけで、今日起こったことなどはまだほとんど思い出せていなかった。

 開けたドアの向こうに花乃がいた。そして、ふわんと鼻先をくすぐるなじみのある香りも。

「晩ご飯はまだだけどね」

 花乃はおそろいのティーセットが二客乗ったトレーを両手で持っていた。佳乃は顔を綻ばせ、花乃を部屋に招き入れた。ちょうど寝起きでのどが渇いていたところだった。

「ありがとう、ちょうど飲みたかったの」

「佳乃ちゃん、いやなことがあると寝て忘れようとするもんね」

 花乃は困ったように笑い、ぴょんと短くはねた佳乃の寝癖を撫でつけた。佳乃は首を傾げ、まだ寝ぼけている脳から記憶を引っ張り出そうと奮闘した結果、案外すんなりとあの顛末を思い出した。ため息が勝手に口から漏れた。

「あのね、佳乃ちゃん……今日の会議のことなんだけど」

 佳乃の表情が変わったのを見て取ったのか、花乃が口を開く。しかし早くこの話題を終わらせたい一心で佳乃は早口で割り込んだ。

「花乃には悪いことしたわね、引き受けたのにいきなり辞退して」

「あ……ううん、それが、あのね……」

 なにやらひどく言いにくそうに、遠慮がちに佳乃の目を覗きこんでくる。佳乃は紅茶を飲んで続きを待ったが、花乃の歯切れがあまりにも悪いので不審に思って尋ねた。

「なに? ああ、もしかして夕子とか怒ってた? 心配しなくてもあたしの代わりは見つけるよ」

「違うの。……あのね、佳乃ちゃんまだ委員のままなの」

 佳乃は驚いて声のトーンを上げた。「なんで? だってあたしちゃんと先生に言ったじゃない」

「うん、そうなんだけど……」

 それきり花乃はまた迷った風に言葉を途切らせる。徐々に苛立ってきた佳乃は、ティーカップを口元に寄せて言った。「納得できないって言うんなら、明日にでも先生の所に行ってはっきり言ってきてやるわよ。あたしは神崎がいる限り死んでもやりませんって」

「佳乃ちゃん、先生じゃダメなの。どうしても辞めるのなら、実行委員長の所まで言いに来いって……委員長が言ってたの」

 佳乃は憤慨した。呼びつけられたこともだが、顧問を差し置いて自分の所へ来いと言う、その傲慢な態度にも腹が立った。

「いいでしょう、行ってやるわ。このあたしに命令するなんていい度胸してるじゃないの! 誰よそのお節介な委員長は!」

 花乃は紅茶を一気に飲み干す佳乃を上目遣いに見つめ、小さな声で言った。

「9組の、神崎拓也くん……」

 佳乃は口の中の紅茶を一気に吹き出した。

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