可能性と確率の問題

 眠れない夜は、恋する乙女には日常茶飯事。


 一時間目終了のベルと同時に、佳乃は机に突っ伏した。

「うう……寝不足」

 辛うじて遅刻はしなかったものの、授業中も眠くて眠くて仕方がなかった。そのせいで内容もほとんど頭に入らなかった。ノートにのたくったミミズのような字を見て佳乃がげんなりしていると、いつもの飛び跳ねるような足取りで夕子がやって来た。

「誰か想う人がいるのかね? 少女よ」

 開口一番に聞きたくもない恋愛沙汰を持ち出され、佳乃は赤い目で夕子を睨み付けた。

「バカ言わないで。もうあたしその話題は避けることにしたの。あたしは花乃と永遠の愛を誓ったんだから」

「はあ?」

「むかつくのはアイツよっ、神崎拓也!

夢の中にまで出て来やがって、何度呻き起こされたかしれないわ。あんなハンカチ、丸めて燃やして捨ててやる捨ててやる!」

 拳で机を叩きながら怒鳴り散らす佳乃を、夕子は興味深く眺めていた。少なくとも去年までは佳乃のこんな形相を見たことはなかった。秀才にありがちな、いつもクールで人との距離を測っているような取っつきにくいタイプだったはずなのだが――今はもはやただの癇癪持ちの百面相にしか見えない。

 そのとき、聞き覚えのある声がして二人は振り返った。

「佳乃ちゃあん、やっほう」

 教室のドアから身を乗り出して花乃が手を振っていた。梳き下ろした長い髪を背中で踊らせながら、佳乃の机まで駆けてくる。

「花乃、どうしたの?」

「千歌ちゃん風邪でお休みだから遊びに来ちゃった。夕子ちゃん、久しぶりー」

「おひさ、花乃。ちょっと見ないうちに可愛くなって。この子と比べると天使のようだよ」

 夕子の横目に気づいて、佳乃はベエと舌を出して机に突っ伏した。

「佳乃ちゃん、何か怒ってる?」

 不安げに尋ねた花乃にすかさず夕子が囁く。「例の神崎君が気になってしかたないんだってさ」

 これには佳乃も黙っていられず、イスを倒す勢いで立ち上がって怒鳴りつけた。

「夕子ぉっ! さっきからいい加減なことばっかり――この際はっきり言うけど、あたしはあんな奴のことなんかこれっぽっちも気にしてなんかいないわよ! たかが8点じゃないの、まぐれよまぐれに決まってる……そうよ、神崎拓也なんか空気中の塵ほどにも眼中にないんだから!」


「誰が空気中の塵ですか」


 その声を聞いた瞬間、佳乃は全身からあらゆる力が抜けていくのがわかった。振り向くことさえできず、そこにじっと立っているのが精一杯だった。

(呪われているんだわ……そうとしか考えられないわこのタイミング)

 夕子も花乃も、ただ目を丸くして佳乃の背後を見つめ続けていた。背中に刺さるその存在感に耐えかねて、ぎしぎしと音をたてるようなぎこちなさで首を巡らすと、そこに夢と寸分も違いない姿があった。

「関口佳乃さんでしたっけ。あなたとはいつもいつも、ろくでもないタイミングで会いますね。何か僕に恨みでも? ああ、この間の試験結果の恨みですか」

「くっ……神崎拓也……」

「あなたにフルネームを呼び捨てにされる覚えはありませんが。どこまでも失礼な人ですね」

「ぐぬ……」

 佳乃は唇をかんで目の前にある端正な顔を睨み付けた。空気中の塵をこれほど腹立たしいと思うはずがない、むしろコイツはタチの悪いウイルスだ。

「あ、あ、あなたがどうしてあたしの教室にいるのよ」

 腹立ちのあまりに噛み合わせの悪い口調で佳乃が突っかかるのを、「なにを馬鹿馬鹿しい」とでも言いたげな顔(佳乃ビジョン)で拓也が返す。「友達に会いに来たんですよ。いちゃいけないんですか」

 なるほど、よく見れば拓也の後ろで数人の男子が固まってちらちらとこちらの成り行きを見ていた。佳乃は心底驚いて、思わず大声で言っていた。

「よくもあなたみたいな根性悪に友達ができたわね。一言言わせてもらうけど、そのいやみったらしい口調はどうにかしたほうがいいんじゃないの?」

 拓也は息を吸い込み、前髪を払いのけて笑った。目がすわった笑みだった。

「ご忠告、どうも。あなたもせいぜい礼儀作法の鍛錬でもなさったらどうでしょうね。どれだけやっても、今以上に悪くなることはないと思いますよ」


(コロス!!!)

 心の中だけでその絶叫を留まらせたのは我ながら偉業だと佳乃は思った。普段から鍛えている理性がなければ、鉄拳数発では済ませないところだった。

 拓也が行ってしまってから、花乃はようやく口を開いた。

「今のが神崎拓也君なの? 優しそうなのに、結構口がキツイんだね」

「キツイっちゅうか、なんちゅうか……エグい」

 夕子もため息をついてしみじみと呟く。それでもその手はしっかりとペンを握り、イケメン帳の上を滑っているのだから大したものだった。

「よ、佳乃ちゃん?」

 はたと気づいた花乃が、佳乃の目の前でひらひらと手を振る。佳乃は口を利くことさえできず、青い顔で浅い呼吸を繰り返していた。思考回路はスパーク寸前、もう何がなんだかわからない。ただ脳内で繰り返されるのは、考えるだけで鳥肌が立つ拓也の言葉だった。

「放心してる、無理もないか。この佳乃があれだけ言い負かされたんだもの」

「負けてっ、ない!」

 茫然自失の状態からはい上がり、佳乃は叫んだ。「あたしは絶対に負けてない! 今日のは引き分けよ、あんな奴に負けるわけないでしょーっ!」

「あの、関口さん」

 拓也と入れ替わるようにして、一人の男子生徒が佳乃の机までやって来た。今時の男子にしてはこぎれいにネクタイを結ったり、しわのないシャツを着こなしているところを見ると、どうやら拓也の友人のようだった。どことなく似通うような顔立ちをしている。佳乃は腹の虫が治まらず、つっけんどんに跳ね返した。

「何。アイツに何言われたか知らないけど悪いのはアイツよ。文句はいっさい受け付けないわよ」

 怒って帰るかと思われたが、その男子は意外にも殊勝に頷いて頭を垂れた。

「いや、ほんとに。拓也がひどいことを言ってごめん。あいつはああいう風にしか言えない性格だから……でも、根はいい奴なんだよ」

 佳乃は正直驚いて、相手の顔を見つめた。

「あいつの友達にしてはまともなのね。根がいい奴なんてのは死んでも信じられないけど、あなたがお人好しって言うのはよくわかった気がするわ」

 男子生徒は怒ることもなくわずかに微笑んで、佳乃の机を去った。花乃があわてたように佳乃の肩をゆさぶってくる。

「佳乃ちゃんってば、キツいよ~。きっと福原君びっくりしたよ」

「福原君?」

 おうむ返しに佳乃が尋ねると、花乃はこくんと小さく頷いた。

「うん、うちのクラス委員長なの。しっかりしてて優しくて、いい人なんだよ」

「はあー……なんでそんなのとアイツが友達なんだろ」

 拓也と比べると、福原という友人の方がよほど好感が持てる。その柔らかな物腰を少しでも拓也に分けてやるべきだ、と半ば自分のことを棚に上げて佳乃は思った。

(いや、アイツに比べたら誰だっていい人なのよね……)

 ちらりと振り返れば一瞬拓也と目が合いかけて、佳乃はあわてて目をそらした。



 可能性と確率の関係。

 そのなかの、ほんのほんの小さな部分に、

『それ』はこのときからあったのかもしれない。

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