双子ティータイム

「神崎拓也、神崎拓也」

 佳乃は帰り道もずっとそれだけを呟いていた。忘れないという自信はあったが、もしもの時のためにこうやって頭にたたき込んでおくのだ。万が一、今交差点を突っ込んできたダンプにはねられて記憶喪失になろうとも、この名前だけは忘れてはならないのだ。

 今までの人生、アレほどの屈辱を受けた覚えは未だにない。

 たとえクラス中にがり勉と呼ばれ仲間外れにされようと、自分は周りよりも数倍優れているという優越を自覚していたおかげで屁にも思わなかった。

 だが今回は明らかに、相手は佳乃より一枚上手。傷つけられたプライドを、自分でリカバリーすることができない。それがますます佳乃の苛立ちを募らせた。

(くやしい、くやしい……! あの男、絶対許さない。何とかして見返さないと)


「ただーま」

 いつにも増して不機嫌なあいさつで玄関のドアを開くと、ぱたぱたと軽い足音がリビングを飛び出して佳乃の元に駆けてくる。それが誰かよく分かっている佳乃は、最大限にしかめられた顔を可能な限り笑顔に近づけて、その足音を迎えた。

 さらさらと音を立てそうな長いストレートヘアを揺らしてやって来たのは、佳乃の双子の姉、花乃かのだった。まごうことなき一卵性双生児で顔立ちも同じはずなのに、似ていると言われることが少ないのは、醸し出す雰囲気の違いだろうと佳乃は思っていた。

「おかえり、佳乃ちゃん……どうしたの、イヤなことあった?」

 顔を見るやいなやそう聞かれて、佳乃は思わず苦笑した。頑張って笑っていたのに、花乃には何でもばれてしまう。やはり双子独特の絆だろうか。だが何故か佳乃が花乃の変調に気付くことは滅多にないのだ。あたしが鈍いだけなのかしら、と佳乃は呆れるようにため息をついた。

「やっぱり変だよ、どうしたの。リビングに紅茶用意してあるから、いこ」

「花乃の紅茶! 行く!」

 花乃の紅茶、と聞いて佳乃は飛びつくようにリビングに向かって駆けだした。


 本日のメニュー、ウバのロイヤルミルクティー(ホット)。

 だが家族専用の精神安定剤『花乃の紅茶』を飲みながらも、佳乃は今日のことを話す気にはなれなかった。自分でも情けなすぎて、花乃に向かって冷静に語れる自信がない。ただもうクセになったように、例の名前を呟く。

「……神崎拓也めぇ……」

「神崎拓也? 神崎君がどうかしたの?」

 そうこともなげに言ったのは、目の前でおっとりとカップを傾ける花乃だった。佳乃は仰天して目を剥き、紅茶を吹き出さんばかりの勢いで尋ね返した。

「花乃、神崎拓也を知ってるの!?」

「え、うん、転校してきた神崎拓也君でしょ? 隣のクラスだよ、英語で一緒の9組の子が騒いでたもん。すごい頭良くて、格好いいんだって」

 花乃がもたらした思いもかけない情報に、佳乃は絶句した。転校してきたばかりであの点数なのかと思うとまた無性に悔しさがよみがえってくる。おまけにもう噂になっているなんて――しかも頭のできには何の関係もない容貌のことまで。

 花乃は大きな目をくりくりと輝かせて佳乃に尋ねた。

「珍しいね、佳乃ちゃんが帰ってくるなり男の子の話なんて。神崎君と何かあったの?」

「何かどころじゃないよっ! もう……もう、切歯扼腕もいいところだよーっ!」

 歯ぎしりして髪の毛をかきむしる佳乃に、花乃は相変わらずきょとんとしたまま返す。

「せっし……たくあん? お漬け物の話?」

 脱力した佳乃は、へなへなと机の上に突っ伏した。

 佳乃の秀才ぶりと並んで、花乃の天然ぶりは学校でも知らないものはなかった。自分を作ることなど全くなくてこれなのだから、最強と言わざるを得ない。どうやら佳乃がこの双子の姉の分まで欲深い上昇志向と競争意識を奪って生まれてしまったらしく、花乃はそれは見事に天使のような性格を持って生まれ(その割には多少ボケ度が高い気がするが)、驚異的にも現在までそのままなのだ。

 子供の時からずっと、佳乃は花乃だけにはかなわなかった。

「ううん、もういいよ……ははは……」

「そうなの?」

 佳乃の笑みにつられるように花乃も小さく笑い、紅茶を一口飲んだ後急にほっとしたように破顔した。

「びっくりしたよ、佳乃ちゃんが男の子の話なんて。好きな人でもできたのかと思っちゃった」

「や、や、やめてよ!」

 言葉を聞くなり腕を走ったイヤな感触で、佳乃は危うく紅茶をこぼしそうになった。「あたしは恋なんてしないわよ! 今日だって昼休みに散々なケンカ見ちゃったんだから。なにが楽しくてあんな見苦しい茶番劇を披露しなきゃいけないの、バカバカしい!」

「佳乃ちゃんらしいね」

 花乃がにっこりと微笑む、その笑顔はこの紅茶に負けず劣らず暖かくて安心する。花乃の色は白、それも微塵の汚れもない純白だ。愛おしくて仕方ないこの笑顔がいつか家族以外の誰か一人に奪われる可能性を思うと、佳乃は急にいてもたってもいられなくなって花乃に抱きついた。

「うわっ、佳乃ちゃんどうしたの」

「花乃、あんたは恋なんてして変わらないでね! ずっとそのままでいてね!」

 何の脈絡もない佳乃の要望にも、花乃はさして驚くことなく首を傾げた。

「わたし? うん……そうだね。恋ってどんなものなんだろうね。こんなこと言えるの佳乃ちゃんだけだよ。みんなに言っても笑われちゃうんだよね、恋を知らないなんて、そんなはずないって」

 恋愛を端から否定する佳乃とは違い、花乃は未知の恋愛にあこがれているふしがある。そこがまた佳乃から見れば危うくて仕方ない。

「花乃、あたしがいるわ。結婚なんてしなくたって、二人で一緒に生きていけるわよ!」

「え、あ、あの佳乃ちゃん……」

「恋なんてしちゃ駄目だからね! 花乃はずっと真っ白なままいてほしいの。あんな馬鹿な茶番を演じる女なんかには絶対にならせないわ!」

 花乃を放すと、一息吸ってから佳乃は一気に紅茶を飲み干した。

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