アイツの名は

 生物室は、たとえようもなく重苦しい空気に包まれていた。

 暗雲の発生源・佳乃は黒くてざらざらした学校特注の机に突っ伏して、なにやら判読不可能な文字をノートに書き続けている。時折奇妙なうなり声をあげては、はあはあと肩で息をし始めたりして、普段の天才と呼ばれる生徒のあまりの変貌に、他の生徒のみならず先生までもが震えあがって見て見ぬふりを決め込んでいた。

「ちょっと、佳乃、あんた壊れすぎ」

 見かねた夕子が後頭部に一撃を入れる。と、そこで佳乃は勢いよく立ち上がった。

「しまった! 忘れてた、一位の奴の名前見てない!」

 教室中に響き渡る絶叫、そして沈黙。震える教師の手からチョークが折れて落ち、床で砕ける微かな音さえ誰の鼓膜にも着地した。

 見るからに気弱な生物教師はゆっくり振り返り、おそるおそる口を開く。

「……関口、落ち着け、あのな、今は、授業ちゅ……」

「夕子、覚えてる!? い、一位の、ニクニク憎々しい一位の奴の名前っ!」

 教師の声など端から耳に入っていないのか、風を切る音を立てて自分の方を向いた佳乃の首を見て、夕子は引きつった顔で答える。

「アンタが覚えていないのにあたしが覚えてるわけないでしょ」

「それもそうね、ああもう不覚! 帰りに見てく、絶対忘れるもんか――」

 気の済むまで歯ぎしりをして、そこで佳乃ははたと我に返り、自分の置かれた状況に気付いて真っ赤になった。教室中の畏怖の視線を浴びながら小さくしぼんで椅子に座り直した佳乃は、無事授業が再開されたのを見届けてから隣の夕子に囁いた。

「許すまじ私の敵。あいつのせいでとんだ恥かかされたわ。帰りに掲示板寄るからつきあってよ、夕子。頼りないアンタの記憶にも、もしもの時のためにしっかりインプットしてもらわないと」

「……なんか、あんたが恋愛のかけらもできないわけがよくわかった気がする」

 夕子は眉間にしわを寄せ、虚空を見つめてふっと浅いため息をついた。



「かんざき、たくや。986点………986!? あたしより8点も高い!」

 5時間目の終了後、夕子の手を引いてダッシュで掲示板までやって来た佳乃は、見つめてもどうにもならない文字の羅列すら睨め殺しそうなほどの目つきでそれを捉えた。数百の名前の頂点に君臨する王者の名、それは何度見ても自分ではなかった。

「神崎拓也……聞かない名前ね?」

 隣でやる気なさげに見上げていた夕子が首をひねる。情報通の夕子が3年間で知らない人物となると限られてくる。不登校か、留学中か、または転校生か。

(そんなはずはないわ。うちの授業はよそよりも格段に難しいし、進度も速いのよ。転校早々にこんな成績出せるはずがない)

「じゃあ一体何者なのよアレは! おのれ神崎~、顔を見せろ~!」


「8点下ということは……あなたが二位の関口佳乃さん?」

 ふいに間近で声がして、佳乃は驚いて振り返った。おまけにその物言いは、今の佳乃にとっては最大級の厭味以外の何ものでもなかったため、相手の顔を確かめる前に口が勝手に滑りだした。

「ええそうですよ、二位ですよ! 二位で悪かったわねっ、何か文句あんの!」

 佳乃が挑戦的に顎を突き出した先にいたのは、どこかで見覚えのある男子生徒だった。眉を寄せてまじまじとその顔を見つめ、妙に整ったパーツの一つ一つを追っていくうちに、そこだけうっすらと赤くなった細い顎の線にたどり着く。

「あ。――うわああっ!」

 思い出した瞬間、あまりの気まずさに佳乃は悲鳴を上げて後ずさった。そこにいたのは、先ほど思いがけず渾身のスクリューアッパーを食らわせた男子生徒だったのだ。

「おお、さっきの……。大丈夫だった?」

 弁解の余地もなく立ちすくむ佳乃に代わって、夕子が横から声をかける。

「ええ、おかげさまで。これ」

 男子生徒は、制服の上着のポケットから取り出したものを佳乃の目の前に差し出した。それは去り際に佳乃が投げたハンカチだった。濡らして使った様子もなく、ぱりっとのりのきいた状態で丁寧に折り畳まれていた。

「さっき預かったハンカチです。頂くわけにもいかないので返します」

 そういうと、妙に丁寧な口調のわりに結構強引な仕草で佳乃の手にハンカチを握らせる。佳乃はなにも言わずただまじまじとその顔を見つめていた。あまり人の顔を覚えるのは得意ではないが、この生徒の顔を知らないはずはないと思った。どこが一番に目立つという顔立ちではないのに、歪んだところのない造りや、妙に人を引き付ける目、さっきから寸分も変わらない表情。こんな生徒がいたのなら、今まで知らなかったわけがない―――

 佳乃の無遠慮な視線に気づいて、男子生徒は眼鏡を押し上げた。

「よほど嫌われているらしいですね、僕は。突然殴られただけでも災難なのに、それでも親切に借り物を返しに来た人間に向かってまるでけだものでも見たような悲鳴ですから」

 機嫌を損ねた様子でふいと横を向き、また思い出したように振り返る。

「そのうえ、自分が二位に落ちたからと言って逆恨みされちゃたまらない。悔しかったら、次はせいぜい頑張ることですね、関口佳乃さん?」

 ふっとかすめるような笑み――佳乃には嘲笑にしか見えないそれを浮かべて男子生徒は去っていく。ただ呆然と、腑抜けたようにその背を見送っていた佳乃は、その姿が階段の奥に消えたときにやっと我に返って叫んだ。

「……な、な、な、なに今の!  なに、なに今の!」

 狂ったように叫びながら佳乃は夕子に掴みかかった。夕子も夕子で、彼の去った後を目で追いながらどこか気の抜けた声で返す。

「知らないよあんな子……でも、えらい綺麗じゃなかった?」

「キレイとかキタナイとかそんな問題じゃない――そうだ、あいつ、あいつだ……!」

 天啓の如き直感のままに、佳乃はものすごい勢いで掲示板を指さした。その先に誰かがいたら間違いなく目つぶしをくらわせて病院送りにしていたに違いないほどの剣幕だった。

「あいつだよっ!  神崎拓也ーっ!」

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