たとえばこんな始まり

 あたしは生まれつき、ほかの人より知りたがりだった

 でもどうしても知りたくもないことがあった


 それは、謎の単語の正体





 恋をおしえて

 “ Please tell me a romance ! ”




 うららかな春の日差しが、教室の窓から射し込んでいた。ヒバリの鳴き声がどこからか聞こえてきて、佳乃よしのは進級して以来初めて、新しい教室の窓に歩み寄り、新しい景色を眺めた。

 昼休みのにぎやかな喧噪に包まれた中庭が、去年よりも少し遠く見えた。それを包み込むように咲き誇る桜やモクレンからは、華やかな春の匂い。開けた窓から吹き込むあたたかな空気を胸いっぱい吸いこむと、ふと昨夜飲んだ紅茶の薫りを思い出した。

「階が上がったから、桜がちょっと下に見える」

「やだなー、折角の中庭の風景が見えないじゃん」

 入学して以来の腐れ縁、松井夕子はさも不服そうに唇を尖らせて窓から身を乗り出した。佳乃はそれを横目で見ながら、呆れてため息を付く。

「何が風景よ、どうせイケメンウォッチングしかしないくせに」

 心外なと言いたげに目を丸くし、夕子は肩口でぴょんと外側に跳ねた毛先を元気良く揺らして振り返った。

「いやいや、カップルウォッチングだって面白いから!  ほら、あそこ、あれあれ!」

 夕子が意気込んで桜の並木のあたりを指さしたので、佳乃は渋々胸ポケットから眼鏡を取り出した。ぼんやりとまんべんなく桃色だった世界に、濃いグレーと黒がぽつんと二つ浮かび上がる。グレーは男子、黒は女子の、佳乃達の通う純泉堂学園高校のブレザーの色だった。

「あれとー、ほら、あれあれ」

 突然襟首をぐいと引っ張られ、むりやり方向転換させられた目線の先に、もうひとつの黒。その黒はいきなり走り出したかと思うと、ぴったり寄り添っていたグレーと黒の間に突っ込んだ。同時に、この高さまで聞こえる怒鳴り声。

「どういうつもりよっ、この泥棒猫! あたしのカレと何やってんの!?」

「ミ、ミナコ……ちょ、ま……」

「誰が誰のカレだって!? この人はあたしのカレだよ、あんたなんか知んないっつーの!」

「うわ、それは、あの、サトミちゃ……」


 夕子は一人で拳を握りしめて、やれ行けだのそれ行けだの言い始めた。隠れ格闘技ファンの夕子のことだから、どうせまた肉弾戦になることを期待しているに違いない。そう思った佳乃は、やれやれと言わんばかりに肩を竦めて窓から離れた。

「あー佳乃、どこ行くのよ。これから面白くなりそうなのに。あの二股オトコの顔見た?」

「見たくないっ。そんなもの面白いと思うのはあんただけでしょ」

 遠目に見ているだけでも気分が悪くなる。人間というのは、どうしてああも醜くなれるものなのだろう。

(ばっかみたい、恋をすると人は変わるって、あんな山姥やまんばみたいなのになるなんて絶対ごめんだわ。人目も気にせず毎日怒鳴り散らして、そうかと思えば貴重な時間を他人ばかりに費やして)

 お腹のあたりがムカムカしてきて、佳乃は大股で教室のドアに向かった。窓からの風に流されるようにして、夕子の未練がましい声が背中にまとわりつく。「ねえ、どこ行くのよお」

「学年模試の成績発表よ! 今日の昼から掲示でしょ」


「そんなの見なくっても佳乃なら決まってんじゃん」

 結局の所くっついてきた夕子の言葉にはあえて反論せず、佳乃は無言で一階の掲示板まで急いだ。夕子の変な趣味につきあったせいで、そろそろ昼休みの終わりも近いはずだった。

「……わあ、謙遜すらしないよこの人は」

 いまだに背後でぶつぶつ呟く夕子には目もくれず、一階に降り立った佳乃は真っ先に視線を大掲示板にむけて走らせた。掲示板の前には十数人の生徒がたむろしていたが、おしくらまんじゅうをするほどの混雑でもないので、そのまま近寄ることにした。

 三学年普通科、順位、一位……

 そこで佳乃の目は凍り付いた。そこから数分の記憶は定かではない。


 自分の成績を確かめて佳乃の傍らに戻ってきた夕子は、彼女がまだまばたきもせずに呆然と掲示板を見つめていることに気付いて怪訝な顔をした。そうしてその凍り付いた視線を追った先で、異様に気付く。

「あれ、ない!」

 ビクリと佳乃の身体が痙攣した。

「ないよ、ちょっと、佳乃の名前が一位にない!」

「ないない言うな! そんなもの、見れば分か……」

 そこから先は言葉にならなかった。ただ数センチ視線を下に移動すれば、探す名前はそこにあるに違いないのだけれど、それを見ることがとんでもなく怖かった。


 佳乃は昔から才媛と呼ばれた。英会話だって塾だって、自主的に望んで通っていたくらいだった。屈指の進学校といわれるこの純泉堂学園にも首位で合格、宣誓だって代表だって堂々と務めてきた。そして、今が三年連続首位の新記録をこの名門校にうち立てようとする、その最後の1年の始まりだった。誰もがその確立を信じて疑わなかった。そこで――まさかこんなことが。

(そんなことって…)

 佳乃は眩暈をこらえて、おそるおそる視線を「二位」の位置までずらしてみた。そこに確かに、かわいげのない文字で書かれた「関口佳乃」がいた。たとえ関の字が奇妙にひしゃげていようとも、一位になければ二位にいるしかないのだ。

「花乃は234位だってさ。あたしはその8つ上。それに比べりゃあんたの場所は神域よ」

 慰めているつもりなのか、はたまた本気でそう思っているのか、夕子はぽんぽんと佳乃の肩を叩いた。だが持ち前の夕子の明るさでさえ、今の佳乃には鬱陶しい以外の何ものでもなかった。

「あんた達と比べないでよっ! 信じられない、どうして!? 採点ミスじゃないの!? ――こんなことって。今までの努力、全部ぱあじゃないのー!」

「うわっ、ちょっと佳乃」

 廊下の真ん中で狂ったように叫び始めた佳乃を取り押さえようとして、夕子ははっと目を見開いた。手を出す暇もなかった。その決定的瞬間は、録画してあとでスロー再生したいと本気で思うような見事な一撃だった。まさに『炸裂』。

「あ゛」

 同時に、まるでゴングのように鳴り響く予鈴。

 佳乃の振り上げた拳が、背後に立っていた一人の男子生徒に強烈なアッパーを喰らわせたのだった。


「あ、あわわ……」

 佳乃は目を白黒させて、うずくまった男子生徒の前で棒立ちになっていた。怒りと絶望の全てを込めた鉄拳だっただけに、どれほど痛かったかは喰らわせた本人の想像には耐えない。

「あの、あの、だ、大丈夫ですか」

 そんなわけはないと分かっていても尋ねずにはいられない言葉をまず口にして、佳乃はいまだうずくまったままの生徒の前にしゃがみ込んだ。

「ほ、本当にごめんなさい! 先生呼んだほうがいい?」

「……いや……」

 ようやく男子生徒は身じろぎし、大儀そうながらも顔を押さえて立ち上がった。細い顎のあたりが赤くなっているものの、出血するほどのダメージはなさそうだ。これで鼻血でも出ていたらシャレにならないところだった。イヤ、今でも充分シャレどころではないが。

「よかった、血は出てないみたい……」

「やばい、授業始まる! 次移動だよ、佳乃!」

 突然叫んだ夕子の声に、佳乃ははっとしてブレザーの袖をまくり上げた。腕時計で12時59分、たしか1分早いから、本鈴まではあと2分。しまった次は生物室だ、と気付いた佳乃の腕をひっつかんで夕子が走り出す。

「あ、これ――」

 佳乃はポケットからハンカチを探り当てて、男子生徒に向けて放り投げた。

「あげる。水に濡らして、ぶつけたところ冷やして!ホントに、ごめんね!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る