第26話 人形と影

 激しい嵐がやってきていた。おかげでいずれの兵も停滞したまま一歩も先へ進めそうに無かった。

 屋根瓦が残らずふっとんでしまいそうな悪天候のおかげで、静も部屋から一歩も出られない。小さな灯りの傍で、静はぼんやり座っていた。

 隙間風がなんども行燈の炎を揺らす。

 軽快な足音とともに戸を開いたのは史郎である。静はぼんやりとそちらに目を向けた。

「おかげんはいかがですか」

濃く煎れた茶の器をそっと主の手前に差し出しながら、かすれた声で様子を尋ねる。

「皮肉か?」

 淡く笑って主人は答える。

 小者は柔らかく首を左右に動かした。

 平静を装っているが、静の顔は悲しみの影が濃かった。夜着の上に軽く着物を羽織った主は右手を伸ばして茶器を受け取る。

 養子の佳近が首尾よく美里城を占拠し、それによって逆賊と成り下がった実弟の祥は今ごろ、舅の治める山背国へと敗走しているはずである。

 静の表情が冴えないわけは、領主の留守に謀反を起こした弟への同情などではなく、そのために悪役となってしまった母方の祖父や、弟の正妻、お才への罪悪感でもなかった。

 史郎は茶ではなく、酒を食らいたそうな痛々しい主の姿を見つめた。床の脇に文机と脇息が用意され、泥と血にまみれた二通の文が無造作に置かれていた。

 先刻、真夜中に届いた訃報の知らせである。

 密書を携え、京へ向かった叔父、兼房がその帰途で土砂崩れに遭い行方不明、そして、幼い頃から椎野家に仕えてきた老臣・織部也正が戦死。

 いずれも、前線へ送るつもりの無かった男達であった。

 織部は戦陣を切って走るには老い過ぎていたし、佳近の実父である兼房は、領主の本筋でありながらとうの昔に武士を捨てた男であった。

 非戦闘員と言っていい身内を見殺しにしてしまった罪の意識が、主の優しい顔を曇らせる。

「御酒をお持ちしましょうか。」

 静の、あまりに悔しげな、そして深い悲しみを抑えて微笑む気丈さが見ていられなくて、史郎が腰を上げようとする。

「ほう、今日は随分と気前がいいの史郎。病人が酒を飲んでいいのか。」

 主が低い声で応じた。茶器を盆に置いてちら、と背後へ視線を走らせる。

 静の背後には、完全に気配を消した男が座っている。暗い灯明の元ではその存在に気づかぬ程、存在感を消していた。静の影武者、早野藤助である。

「おらぬものと思うて下されて結構」

 そう言って影のように常に傍らへつき従う彼は、面立ちも背丈も生き写しのように静に似ていた。しばらくの間は、主の立ち居振舞い、言葉の癖等を覚えるために片時も離れない。

「見ているのが、辛うござる・・・」

 そっと表を伏せて史郎が呟く。

 一夜にして二人の人間を失った衝撃をこらえている主を、黙ってみていられなかった。だが、史郎にはどうしてやることも出来ない。

「では、目を瞑って近う寄れ」

「え?し、しかし・・・」

 主の背後にいる藤助を気にして、史郎は主の言葉に躊躇した。

「かまわぬ。わしを慰めてくれるのであろう?来い。」

苦笑してそう言うと、文机の上に両肘を乗せて上目遣いで小者を見た。その愛らしい仕草には、普段の領主としての威厳は微塵もないが、恋人の胸を焦がし、心を翻弄する力があった。

 煽情的な視線の先にいる史郎は、抗いがたい感情の起伏にかろうじて耐え、ゆっくりと文机の前に歩み寄る。

 静が、白い指をそっと伸ばして、史郎の顎をネコにでもするように撫でた。

「!!」

くすぐったさに思わず飛び上がってしまいそうになった史郎を見て、静が破顔する。

「心配をかけるなぁ、史郎。わしも佳近にも織部にも言うべきわび言葉が見つからぬ。悔しゅうて悲しゅうて・・・されど詫びを入れるのは、この戦が片付いてからじゃ。どんなに辛くても、堪えねばならぬ。今までもそうしてきた。これからもそうせねばならぬ・・・」

「若殿・・・」

「二人の犠牲を無駄にしとうないからの。」

 そうやって今まで耐え忍んできたのだ、と、主は笑う。

「下がってよいぞ。わしの傍にいるといらぬ心労をかけてしまうようじゃからの。」

「わ、若殿・・・」

 気丈な主君が恨めしい。

 頼るどころか、負担をかけさせまいと己を気遣う主君の思いやりがもどかしい。

 そして、静が辛い時さえ甘えて貰えない自分の未熟さが悔しかった。

 薄暗い小さな寝室で、乱れた床の上に座り文机で頬杖をつく静は、そんな姿でありながら美しかった。失望と苦悩に淡く翳っている中性的な美貌が史郎にとってはひどく煽情的で、この場を立ち去りがたい。

 触れることが許されなくても、せめて見つめていたい。

 だが、それも辛い。黙って見ている事さえも辛いほど静の打撃は大きいはずだ。そんな渦中に我が身を投げ出そうとする静が悲しい。

 本城へ戻ったらこのような日々がずっと続くのだ。甘えても貰えぬ、涙を拭ってさえやれぬ、不甲斐ない自分を自覚する日々が。

 美里城主に戻ろうとする静を、これほど不本意に思う者は、この屋敷中探しても自分だけだろう。

 しかし、静は自分の、ただ一人の愛しいひとなのだ。

「史郎殿、ご隠居様は貴殿を気遣っておられる。もう休まれるがよろしかろう。」

 沈黙を守り、完全に気配を消していた藤助がはじめて音声を発する。主君に瓜二つの容貌は見知っていたが、その声音を聞いたのははじめての史郎であった。その声さえも、取り違えそうによく似ているではないか。

「は・・・それでは失礼いたします」

 影武者は強く言ったわけではなかったが、史郎はすごすごと部屋を出て行った。

 あの忍びに、威圧されてしまったかのように。

 小者が退出すると、静は黙って床に潜った。藤助には何も言わぬ。

 静はあまり藤助の存在を意識していない。空気のようなものに思っている。そうでなければ四六時中傍に居られて、正気でいられまい。

 だが今は、史郎を下がらせてくれた事に心の底で感謝していた。

 そして、心のどこかで、何もせず言わずに傍らに居てくれる事にも感謝していた。

 叔父の兼房は、美里丸から京へ直行した帰途で亡くなったことになる。つまりは、静の意思は母、美里丸御前へ通じていると見て間違いはなかろう。京には、お英の方と彩殿がいる。

 …万一の事あらば、椚山公にもご足労願う事になろうて…

現在、同盟者である椚山貞安は京にいるはずだ。万一に備えてつなぎをつけておく必要があった。それゆえに、母の許可を得るために兼房を使者に立てたのである。彩殿とお英の方も母、美里丸御前には頭が上がるまい。

 織部は、山背国へ敗走する祥の軍を掃討する部隊にいた。引き上げ軍の殿を勤めていた岩井軍との衝突で、討ち死にしたという。

 祥の軍を綺麗さっぱり相馬国から追い出してしまいたかった静は、敗走する祥軍の抵抗を甘く見ていた。

よもや、かつて自分の家臣であった岩井軍がこれほど激しく追撃を阻むとは思えなかったのだ。

…岩井め、祥の下で余程の苦労をしたと見える。采配の腕も光ってきたわ…よもや織部を討たせるとは…

 もはや、静と岩井介正との間にはかつての主従の感情はない。少なくとも、戦術のいろはを自分に教えてくれた老臣・織部を失った静にとって岩井は、もはや憎悪の対象でしかなかった。そして、そのために老臣を死なせてしまった己の甘さを、ひたすら責めずに居られなかった。


 上三川(かみのかわ)城へ到着すると、祥は義兄・佐々木昌幸に迎えられた。

「よう、参られた義弟殿。遠路はるばるお辛い旅だったことでしょうに」

 お才を従えて謁見の間へ通された彼は、義兄でありながら初対面の男に労りの言葉をかけられて、思わず相好を崩す。

「お出迎えかたじけのうござる。」

亡くなった祥の父よりも年上の山背国領主は、立派にたくわえた髭にいくらか白いものが混じりはじめている、尖った顎を撫でた。面長で、太い眉と頬骨に挟まれた細い両眼が時折油断ならぬ輝きを見せる。血色のよい肌と、高い鼻筋だけは妹姫お才の方とよく似ていた。

…これが、佐々木昌幸。亡き大殿がついに勝てなかった猛将…。

主人の下座からおもてを上げつつ、岩井は上三川城主の容貌を盗み見た。

小柄でどちらかといえば細身の領主であったし、一見した印象は、椎野涼の方が余程貫禄があったように思える。表情も終始にこやかで、妹婿にも愛想がいい。

だが、あの細い両眼は素早く祥を値踏みし、家臣の自分と吉野高元へ視線を向けていた。悲しいかな、岩井にはそれがわかってしまう。

…殿のように、わからぬまま利用された方が幸せなのかもしれぬ。

宿敵・相馬国に攻め込むために体の良い大義名分と傀儡と化した祥は、歓迎されている本当の理由がそんな所にあるとも知らず、舅が自分を買ってくれているとばかり思い上がっていた。

主人の外祖父である吉野は、ただ黙って佐々木と祥のやり取りを眺めていた。まるで何かを悟ったかのように、その表情からはどのような感情も伺えなかった。

…いっそ、佐々木公の家臣へなれるならば…。

岩井は、心の隅でそんなことを思う。


 再び美里城の主と返り咲いた椎野静は、伯規国へ早々に使いを出して休戦条約を取り付けた。少なくない黄金を送り届け、新発田城主の機嫌を取ることも忘れない。戦わずに済む相手ならば、それに超した事はないのだ。

そして腰も落ち着けずに時環国へでかけ、京から帰ったばかりの椚山公へ挨拶に出向き、養子の佳近の婚約まで決めてきた。迅速に対応する外交手腕は静ならではである。

そして、休む間もなく美里城改築と、山背国境付近に新たな城を築きはじめた。

 笛木(ふえき)城と名付けた砦のような山城の建設は、佐々木家を必ず滅ぼすという、静の決心の現れでもあった。

…父上の仇は必ず討つ。例えどんなことがあっても…!

その思いは、静の中でもはや消す事が出来なくなっていた。

傍らで、どれほど史郎が優しく微笑んでくれても、この復讐を遂げ無ければ、静は救われぬ。



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