第24話 冷や水

相馬国には本城・美里城のほかに五つの城がある。

安川内記が治める富樫城。

吉野高元が治める竹取城。

織部也正の子吉平(よしひら)が治める神谷城。

椎野兼房が治める荻城。

竹脇道長の弟永矩(ながのり)が治める西尾城。

この内、早くも富樫城と荻城は静の側に付くことになっていた。秘密裏に兵を集めているが、見つかるのも時間の問題だろう。


 鏑木に守られてお才が隠居所にやってきたのは、三浦が去った三日後のことであった。

「御隠居様…なんぞ精の付くものと思いまして、台所の方に山芋と鰻を届けておきました。食欲がおありでしょうか」

家臣の言ったとおり、御簾越しの対面であったが、お才は自分の胸の内を打ち明けられる嬉しさで、そんな事はどうでも良かった。

くぐもった低い声で、隠居が返答する。

「かたじけない…熱は下がったのじゃが、実に見苦しい姿になりましてな。ご容赦くだされ。なんぞわしに御相談がお有りとか?隠居の身で役に立てるかどうか…」

「もはや御隠居様にお知恵を拝借する他に無いのでございます。哀れと思し召されてお助けくだされ。実は…」

山背御前は自分の精神的な窮状を語った。最後は半分涙声になってしまっていた。それ程に心細かったのだろう。

「左様なことになっておったのか。」

「私には、どうして良いものやらわかりませぬ。」

人払いを命じているので次の間と臥所には二人きりであったが、取り乱した自分の姿を恥じて、しきりに身繕いするお才に、

「お才殿…わしに言えることは、何も無い。ただ、お才殿はどうなさりたいのじゃ?」

軽く咳払いをして聞いた。

「…私の望みは、ただ平和に暮らすこと、それのみです。出来るなら戦もなく、跡目争いも無く…家族と静かに暮らして行きたいだけです。」

静はお才が気の毒に思えてきた。武家に生まれれば女は誰しもそうなのだが、政略結婚の末に実家と婚家が争ったり、両方が滅びてしまったりと、自分ではどうにもならない運命に翻弄される。

この天真爛漫な少女が、これほどに追いつめられてるのは不憫であった。

「その望みはいつか必ず叶えられよう。だが今は堪える他に無い。もしも城にいるのが辛いと仰せならば、佐々木公に頼んで実家に帰ることが出来るように計らうが…」

そしてその実家をいずれは攻め落とす心積もりの静は、痛む良心と戦いながら、そう言った。

「…いいえ、兄は相馬国で役に立たなかった私の出戻りなど許さぬでしょう。…つまらぬ戯れ言とお聞きくださいませ。私は…」

「お才殿?」

「静様に輿入れすべきでございました。」

この告白に静は胸が痛くなった。

それは恋の告白ではない。お才との縁談を蹴った静を非難しているのでもない。兄と弟、それだけの違いで、これほどに運命が違うことを訴えているのである。

訴えたところで何が変わるわけでもないが、言わずにいられない。

だが、一方で、静の頭の中には別の何かがひらめいていた。

「お才殿は、そのようなことを誰にでも仰せになっておられるのか。」

「そんな。ごく親しい国元から仕えてくれるものが、時折そう言うので、そうであったかと思うただけにございます。静様は、いつも私のことをお心に留めてくださるから…」

「わしに嫁いでも良いことはないぞ。この若さで隠居じゃ。」

「私が望むのは、戦や謀略を尽くして手に入る権力の座ではないのです。私は兄が嫌いでした。姉や弟、御自分のお子までも政略結婚の手先に使い、他国へ挑む兄が。お舘様はそれを卑怯と仰せになるので、なさらぬけれど…。」

「さればわしもお才殿に嫌われよう。祥が謀略や政略結婚を嫌うのはわしがそれをするからじゃ。」

「静様…」

「わしが水汀の井筒城主を暗殺したと言う噂も知っておられるだろう?お才殿が思っておられるほどわしは良い人間ではない。」

「静様がそれをなされるのは、お国を守るため。他国を侵略したいがためではありませぬ。」

「同じ事じゃ。」

「静様の策は戦をせずに済ませたい、あるいは最小限におさえたいがための策にございます。お舘様…祥殿が伯規へ攻入ったのとはわけが違います。どうか、静様、もう一度お城へ戻ってくださりませ。」

夫の権威失墜を覚悟してまでの訴えであった。

「それが一番お国のためとなりましょう。」

言いながら再び泣き崩れてしまったお才が落ち着くのを待って、御簾の向こうにいる隠居はくぐもった声で告げた。

「お才殿。…万一わしが美里城へ戻ることあらば、それはこなたの夫と兄が滅ぶときでござる。」

人妻ははっと顔を上げた。

そうだったのだ。夫はこの御簾越しの兄を裏切って現在の地位を手に入れた。考えてみれば、留守を狙い謀反を起こした弟を許すはずが無いのだ。

静が、祥の予想以上に穏やかに城から去ったので二人は納得づくの調停を結んだかに見えたが、実際はそうではない。

 一方的な弟の行動を兄が聞き分けてくれただけだったのだ。

それを祥の側では全てがうまく行ったかに勝手に思っていただけで…

「そのあかつきには、お才殿を貰い受けてもよい。そしてお好きな場所にて平和に暮らせるよう取り計らおう。」

「お舘様と兄を…討つと仰せですか。」

「厳しいことを言うようだが、仕方あるまい。わしの父もお才殿の兄上に殺されたのじゃ。この仇は討たねばならぬ。」

「ええっ!兄が大殿を?」

「お才殿の婚礼の前日じゃ。覚えておられよう。」

「急病にて、とうかがいました。」

「まさか暗殺されて、とは発表できまいよ。父の名誉のために。」

泣きはらした大きな瞳をお才は伏せてしまった。世間に疎いはずの隠居から多くのことを知らされて、衝撃のあまり声も出ない。

うなだれたまま、身動ぎ一つしないお才を御簾越しに見つめて、静は抱きすくめて上げたい衝動を必死に押さえた。

…かわいそうだが、今はどうにもしてやれぬし、わしは、こなたをも利用しようとしている…許してくれお才殿。

放心したまま退出する弟の妻を見つめながら、静は深いため息を吐いた。どうにもやりきれない。

音も無く日向が臥所の中に現われ、

「このままお方様をお帰ししてよろしいのでしょうか。少々知りすぎたのでは…」

微かな声で忠告する。

それに対して静は首を横に振った。

「あれほどのことをお才殿が祥に喋ったからと言って、祥に何が出来る。もはや彼奴に残された最後の砦は母と岩井くらいの者じゃ。家臣共を従わせることの出来ぬやつに、どんな情報を入れたところで無駄よ。」

心の底で詫びながら、静は薄幸の人妻を思った。

「織部を呼んでくれ」

 密偵に低く命じると、静は臥所の中で大きなため息を吐く。

時を置かず織部がやってきた。次の間で平伏する。

「お呼びでしょうか。」

「済まぬが、いろいろと頼みたい。近うまいれ。」

織部は、先ごろ引退を訴えてきた老体を御簾の傍にすりよせた。すると御簾が半分ほど上がり、床の上で胡座をかいた主人が厳重に封印した二通の書状を手渡す。

「竹脇とこなたの息子の元へ行ってもらいたい。本来なれば、三浦か佳近に頼むところだが、三浦は今動けぬ、佳近は幼すぎる。」

「密書にございますか。」

「うむ。根回しにはよい頃合いだろう。やってくれるか」

無言で頷き、老臣は恭しく二通の密書を押し頂いた。懐に確かめるようにしまう。

「ここに写しが有る。密書の内容じゃ。どちらも一語一句変わらぬ文面ゆえ、目を通すがよい。」

封もしていない手紙を投げると、織部は軽く目を通した。こともなげにそれを畳み主君へ手渡す。

「兵は八百もいればよい。加羅衆がいないのは心もとないが…」

「加羅衆の出番があるような戦にはしとうござらぬ。」

「…そのとおりじゃ。織部、いつまでも働かせて済まぬ。」

申し訳なさそうに若い主君が言うと、織部はしわに埋もれた瞳を細めた。年若い主君の気遣いなど、無用だと言いたげに。

老臣が退出した後、入替わりに池田が一人、見知らぬ若者を連れて現われ、静はまたもやため息を吐いた。

「わしを休ませないつもりだな。池田」

「この数ヶ月存分に休まれたはずかと」

「…嫌な奴じゃ。」

さして嫌そうでも無い顔をして、主君は臥所から降りてきた。

「影武者を御用意いたしましてござる。しばしの間お側に置いていただけますか。」

「よかろう。顔を見せい。」

促されて顔を上げた若者の顔をひとめ見て、静は瞠目した。

「早野藤助(はやの とうすけ)にござる。御隠居様には、はじめておめもじ仕る。」

櫛の通った黒髪を後ろで一つに結い上げた輪郭は、まさに鏡を見ているかのようだった。切れ長の瞳や、肌の色、唇の形などはそっくりで、静と兄弟と言っても通るだろう。わずかに鼻が高すぎ、眉が濃いことを除けば双子と言っても

差し支えあるまい。

「お立ち下されませ。」

目の前の若者に促され、視線を相手からはずせぬままに従う。

背丈までも同じで、体格もそっくりであった。

「厚着をしておいでですな。」

そっと衣服の上から藤助が静の肩を抱いて、生地の厚さを確かめるようになでる。

「驚いたのう…!わし自身さえ区別が付かなくなりそうじゃ。このような若者がおるのか。」

「世の中には自分に似た人が三人はいると申しまする。」

池田が二人を見上げてそう告げ、

「それでも私には簡単に見分けが付きまする。」

自信ありげに言った。

「着物を取り替えたら分かるまい。」

静が面白そうに笑う。

「いいえ、静様。藤助はまだ静様の挙動を存じませぬ。歩き方一つで人は区別が付くのです。藤助が静様のご様子を頭に叩き込むまでは御一緒させてよろしゅうございましょうや?」

「よかろう、許す。」

快諾した静は、早速史郎に区別できるかどうかを試してみたくなった。

…史郎にはわしがわかるだろうかな?

「では、支度をしてまいります。」

そっと頭を下げて、影武者の青年は引き下がっていった。

「…支度が要るのか?池田」

「当然でしょう。あのまま静様の傍でお仕えしたら影武者がいることを広めているようなものです。」

「それもそうだな。…あれ、は男だな?」

「勿論です。」

 自分より薄着だった青年の体格を思い出して静はため息を吐いていた。自分が男であれば、ああだったのか、と思いながら。

「池田よ、吉野のじじの元へ行ってくれ。」


ここ数ヶ月ですっかりやせ衰えてしまった重臣・吉野は、医者の調合した滋養強壮薬とやらをげんなりした顔をして、飲み干した。

兄弟の争いは、二人の外祖父となる吉野と実の母親・お陽にとっては心労の種に他ならなかった。吉野にとって、静も祥もかわいい孫なのだ。

…大殿が生きておいでになっていてくれたら…

けして起こるはずのなかった争いである。

吉野が井筒城へ出かけていた間に、このようなことになってしまっていた。一体誰が想像しただろうか、静に逆らう、いや、涼の遺言に逆らうものが有ろうなどと。

…静様は、今ごろ何を考えておいでやら…。

二人ともかわいい孫ながら、自身の感情に正直な祥と違い、静は大人びて自分の考えを余りおもてに出さない。大人しく隠居する旨を耳にしたときも、その影には何か必ず企んでいるのではないかと、思ったものだ。

病に倒れたと言うのも本当かどうか疑うべきである。

竹取城の居間で、考えても分からない孫の意向を思っていると侍臣が声をかけてきた。

「殿、池田正次様がおみえになりました。」

そら、おいでなすった、と心中で呟いてから、

「通すがよい。」

加羅衆の頭領は何度かここを訪ねたことも有り、顔を見知っている。

勿論、静の腹心であることも承知していた。

「久しいの、池田。静様の御容体はいかがじゃ?」

「御病も落ち着きまして…」

顔を僅かに上げてそれだけを答えると、池田は、懐から厳重に封じられた密書を差し出した。

「静様から、吉野様へ言付かって参りました。」

黙ってそれを読んでいた吉野の顔が、一瞬変わり、そしてまたいつもの表情となった。

「これは、まことに静様が仰せになったことなのか。」

静の祖父の声が震えていた。

密偵は黙って頷いた。

「何を考えておいでなのか…いつもながらわからぬ。涼様の…大殿のことは大抵理解できたのに、わしも年老いたのか。静様のお考えは理解できぬようになってしまった。」

「静様のお指図を受けてくだされましょうや?」

「…よかろう。本当にこれでよいのならば、わしは静様の意のままに動くとしよう。そのように御隠居に伝えてくれ。」

「かたじけのうございます。主に代わり、お礼申し上げます。」


一週間後、吉野高元は登城し、祥の目通りを願い出た。

程なく許可が下り、対面の間にて、吉野は祥と会った。

「やつれたのう。吉野には色々と苦労をかけておる。すまなんだ。」

祥は、祖父へ対するいたわりの気持ちを表に出して、優しく声をかけてくる。自分の采配がうまく行かないために、祖父が必死で立ち回り、家臣を宥めていることが、祥自身よく分かっているのだ。

「お人払いをお願いできますか。」

神妙な顔で願い出る重臣の姿にただならぬものを感じて、祥はすぐに従った。

「ずっと、これまでお話したことのなかったことでござる。この事は、それがしと、美里丸御前様、そして、御隠居さま御本人しか知らぬことでございます。」

「なんじゃ、兄上のことなのか。」

「はい。」

静のことと知って、祥は膝を突きつけるように上座から下りてきて身を乗り出した。

「はよう申せ。兄上になんぞ秘密でも有るのか」

「はい。しかし、これはくれぐれも誰にもお洩らしにならないで下され。潔く身を引いてくださった静様のことでございますゆえ」

「わかったゆえ、はよう申せ。」

前置きの長い重臣に苛立ち、祥は急かした。

「実は、静様はお館様の兄上ではなく、姉上にあたりまする。」



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