第22話 病と熱と
相も変わらず日暮れまで遊び放けて戻ってきた静は、湯浴みをしてから夕餉に取り掛かった。
居間に小者が膳を運んでご飯をよそる。一汁三菜の夕食だった。
元来食が進む方だった静は、比良山に来てからはさらに食べるものが美味しくて、いくらか太ったようだ。
だがそれも史郎に言わせるならば、
「よろしゅうござる…」
のである。
常に神経を使い頭を働かせていた静は今と別人のようだった。
傍らで主が食らいつく姿を嬉しそうに見つめていると、
「失礼いたしてもよろしいか?」
どこからか男の低い声が響いてきた。室内には主従二人しかいないのだ。驚いて史郎が腰を浮かすと、主は鷹揚にそれを手で制して、
「かまわぬ。が、ちゃんと廊下から参れ。史郎がたまげておるわ」
厳しい声で主君が命じる。すると障子が開き、そこに池田の姿があった。
「池田は夕餉をとったか?」
「いえ、まだ…」
「なればここで取るが良い。史郎、なんぞ池田に膳を整えてくれ。食べながら話そう」
「恐れ入りまする」。
黒装束を身に纏った池田は僅かに膝を進めて、史郎に目礼をした。支度のために立ち上がった史郎がそれに軽く会釈して返す。
隠居は箸も止めずにちら、と密偵を見た。
「山背国から戻ったか?」
「はい。」
「父上の暗殺はやはり…?」
池田は黙って頭を垂れた。静の問いに対する肯定をしているのだろう。
「時環国ではどうじゃ?」
しばしの沈黙の後に、静は言葉を吐いた。
「別段に変わった動きはありませぬが…椚山公はまたお忍びで京へ上られるそうです。」
「お忍びとは言っても派手に参られるのだろうな。他国への牽制じゃ。」
「御意にございます。」
「美里城内はどうじゃ。」
「お舘様は伯規へ再び攻入ることを望んでおられますが、もはや竹脇様や三浦様も見限っておられるようです。吉野様も皆様を宥めるのに大変だとか。それから、先月に新しくご側室を迎えられました。」
「…何?祥が側女を?」
「伯規で捕らえた女子のようでございます。大変なご寵愛で。」
静はようやく箸を置いた。
…再三のお才殿の文は…その事のみか?
大きな瞳をくるくると動かし、表情が非常に豊かな愛らしい姫君の姿が浮かんだ。割合にしっかりしていそうで、それでいて危なげな少女であった。静は弟の妻に対してのみ、他の女性程の嫌悪を感じなかったので、常になく世話を焼いてしまったことを思い出す。
「池田、山背国からお才殿のところへ手紙は届いておらぬか。」
「ここしばらく頻繁ですな。」
「ふうむ…」
うなりつつ、腕を組んで池田を見つめる。頭の中で密偵達の情報を整理し、分析する。ここしばらくしていなかったことなので、中々頭の回転が追いつかない。
「京からの知らせでは、やはり椚山公の名声は天下に轟いておられるようでございます。公家への寄進も多大な費用をかけ、大層な羽振りに見受けられます。他に高杉家・藤堂家などが評判になってますな。」
静の頭に、あの鷹揚な、色好みの殿様が浮かんだ。
そのようなとてつもない大物には見えなかったが、あれはかの大名の正体ではなかろう。
…おそらくは、我が父さえも舌を巻くような御仁に違いあるまい。
かの大名は、静が祥に家督を譲ったことに付いてどう思っているのだろうか。
…よもや、わしに小姓になれと言うわけはないだろうが…。
一度、冗談にせよ仕えることを望まれた静は、その事を思い出して苦笑した。酔って静の身体に手を伸ばしてきた事は、公自身も恥だと思っているに違いない。
「静様、そろそろ重い腰を上げてもよろしいのではありませぬか。」
密偵の低い声に、長い時間沈黙を守っていた静は、
「…やむをえまい。むざむざと佐々木の手に我が国を委ねるわけには行かぬ。父の仇も討ちたい。」
再び箸を握った隠居はそう言うと、耳をそばだてた。
木々の梢と葉が激しくこすれ、音を立てている。
「風が強うなったか?」
廊下の方を向いて独り言のように呟く。
「明日あたりから嵐になりましょう。」
「そなたは天気もわかるのか?」
「ある程度は予測できまする。雲や空の様子を逐一観察しておれば多くの事が知れまするよ。」
「史郎もそのようなことを申していた。…わしは何も知らぬ。情けないことじゃ。」
「静様が知らなくても良いことがたくさんありまする。我らもそうでございます。史郎殿も…」
「そうして知識を合わせねば、とても立ち行かぬか…」
足音が聞こえ、廊下で止まった。
「お待たせいたしました。夕餉をお持ちしました。」
掠れた史郎の声が聞こえてきて、障子が開く。
「かたじけのうござる。」
池田が進み出て膳を受け取る。
用が済んだとばかりに引き下がろうとする小者を主君は呼び止めた。
「史郎、わしは決めた。明日病にかかるぞ。明日は野駆けに出ぬ。」
「はぁ?」
いぶかしげに童顔を傾げる小者を見つめながら、
「明日美里城へ行って、医師を呼んでもらうことを頼みに行け。大袈裟に言いふらしてこいよ。」
にやにやと笑っておかしな事を言いつける。
「静様…?」
「よいな。そうじゃのう、熱が出て、発疹が顔中に出来て身動きが出来ない…どうじゃ池田、そんなところで?」
「よろしゅうござる。」
さっそく用意された夕餉の膳に取り掛かった池田がのんびりと応じる。
史郎はしばらく主君の顔に見入っていたが、やがて視線をそらした。静の顔が変わっていたからだ。今日までの、自分の恋人だった静はここにいない。いるのは、椚山公に龍と呼ばれるかつての相馬国の領主であった。
輝かしい戦歴と三国を治める謀略とを併せ持つ戦国武将の椎野静。
馬首をならべて駆け回り、野山で共に握り飯を食べて、井戸水を桶から掬い飲んだ恋人ではない。
少し悲しくなり、史郎は僅かに表情を曇らせる。
「では、明日お城へ向いまする。」
掠れ声で返事をすると、小者は障子を閉めて居間を出ていった。
廊下に出ると吹き付ける風が、さっきまでとは違う生暖かさを感じさせる。
「嵐が、来るのか…」
雲が次々に流れ行く空を見上げて、史郎はそっと呟いた。
「ご隠居様がご病気?」
「まことかそれは」
隠居という言葉が、到底つりあいそうにない年若いかつての主君を思い浮かべて、三浦と岩井の二人は顔を見合
わせた。
「たった今、隠居所の小者が知らせに参りまして。」
報告する侍臣・境も信じられず、かといって嘘とも言い切れず困惑の体である。
「して、病状はいかがなのじゃ?」
岩井の細い目が光り、侍臣に様子を問う。
「はあ、高い熱を出されて体中に発疹が出来ておられるそうです。至急医師を呼ばれたよしにて…」
「…そうか。よし、殿に申し上げよう。下がって良いぞ。」
境が引き下がって行くのを見届けると、三浦は意気込んで、
「驚いた。これはお見舞いに伺わねば。」
と立ち上がろうとする。それを押しとどめて、同輩は、
「まあ、待て。わしは殿に申し上げるゆえ、そなた美里丸様と吉野殿へお知らせしてくれぬか。何しろお身内が先であろう。」
と穏やかに命じた。
「そうであったな、わしとしたことが…よし、お方様へお目通りしてくる。岩井、殿への言上を頼むぞ。」
「おお。殿もご心配なされよう。」
控えの間で語らっていた二人は同時に部屋を出た。
それと申し合わせたかのように、暗い曇り空から雨粒が落ちてきたようだ。
三浦は頭を叩いて舌打ちした。
「参ったなあ、降り出したか。今日中にご隠居所へお見舞いに上がろうと思うたのに…とりあえず急がねば。では、岩井殿、また。」
早足で廊下を歩み去っていく同輩を眺めてから、岩井はため息を吐いた。
祥を担ぎ出したまでは良かったが、思ったより思い通りに事が進まずに岩井は悩みを増やしていた。
伯規国を攻めると祥が言い出したときには、その無謀さに呆れ返ったものだ。結局それを止めることが出来ずに、惨敗してしまったわけである。
そもそも、三千の軍勢を率いて、一万の兵に勝とうなどと思うこと事態が間違っている。
祥は父・涼がそうしていたように農民から兵役や労役を狩り出すことをしなかった。そのために相馬本国ですぐに集まる数は三千がせいぜいであった。水汀や丘越の駐留部隊を全て集めてようやく相馬国の軍勢は一万五千を越える。
その少ない兵で涼や静が勝利してきたのは、長い時間をかけた下調べと根回しがうまく働いたためである。陰に回ればきれいごとでは済まない事もしてきた。
だが、それがあったからこそ、今の相馬国がある。
無謀な戦をするだけでも呆れるが、祥は静のようにこういった謀略を巡らすのも卑怯だといって嫌がるのである。
「まともに戦って勝てる相手でもないのに…」
兄に対する激しい劣等感がそうさせるのはわかる。
自分は兄とは違うことを誇示したかったのだろう。そしてその上で家臣達に自分の力を見せたかったのだ。しかし所詮、
「静様や涼様とは器が違う…」
のであった。
涼や静に言わせるなら、根回しや謀略を行うのは当然のことである。
「戦場で人を殺しているのと、それ以外の場所でそうするのと一体どれほどの違いがあるというのじゃ。人殺しにきれいも汚いもない。」
「勝つために手段など選んでいられるか。こちらの犠牲が最小限ですむならばどんな卑怯な手も使うわ。」
そうした戦を、岩井は、涼の時代から見てきたのだ。竹脇や吉野のような重臣達もそれを行ってここまで来た。
…甘すぎる。同じ涼様のお子なのにここまで違うとは…
静が隠居してから岩井は口内炎が出来るほど唇を噛みしめてきた。今となっては、早まったことをしてしまったと後悔しても始まらない。
これから、その無謀な主の顔を見なければならない。しかも彼は新しい側室に鼻毛まで抜かれていることだろう。
「どうなってしまうのだ、わしは…この国は…」
兄の静が事を起こせば国は少しはましになるだろう。だが一度裏切った自分を、静が許すはずはない。
しかもその静が病に倒れたというのだ。
岩井はどうしたら良いのか思案にくれながら、主の元へ歩いていった。
美里丸では、妙姫をあやす乳母とお陽、そしてそれを眺めにやってきたお才が客間に集っていた。
夫の足が遠のき、寂しさのあまりお才は度々美里丸を訪れる。それを姑であるお陽が優しく迎えてやるのであった。
「おや、三浦殿。どうなされた?」
二人の子持ちで四十を過ぎる美里丸御前が、輝くばかりの美貌で迎えてくれる。見るたびにため息を吐きたくなるような、奥向きの女王であった。
「お邪魔をいたし大変失礼かと存じましたが、火急のお知らせにて」
客間の二人の人妻が顔を強張らせた。
「何ぞ起きたのか?」
恐る恐るお才が尋ねる。この所お才は神経質になってしまっていた。輿入れしてきたばかりの頃の、天真爛漫さが消え失せ、表情にも影が濃い。
「比良山のご隠居様…静様が御病にかかりお倒れになったそうです。」
「静殿が!」
「は。至急医師を遣わされておりますが」
「命に別状ないのであろう?あれは強い子じゃったから、今まで病気らしい病気もしなかったのに…」
母親まで、静は病気もしなければ怪我もしない鉄人のような武将だと思っているらしい。
お才は、驚愕のあまり蒼白になっていたが、あまりに美里丸御前が落ち着いているのですぐに冷静さを取り戻す。
そして小さな頭が瞬時に働いた。
…これは、静様をお訪ねできる絶好の理由になる…!
「三浦殿…お舘様はお忙しいゆえ、お見舞いには中々行かれませぬでしょう。ご隠居様のご容体が落ち着きましたら、殿に代わってお見舞いに行きとうございます。」
嫁の言葉は、半ば側室に夢中の夫に対するあてつけを含んでいる。それをきいてお陽は困った顔をしていた。
「お才の方様…」
三浦も、それは同様である。なんとも返事をしかねていると、お陽が、
「そうですなあ。お才殿もずっとお城の中では塞ぎがちになってしまうゆえ、静殿の容体が許したらば、お見舞いに行かれるがよろしかろう。お舘様には私からお願いしようぞ。」
優しく言ってくれた。
お才の顔がぱっと明るくなり、三浦は安堵した。
「では、それがしが今日うかがってまいりまする。」
「静殿によろしゅうな。」
「吉野様にこの事を…」
「父上にはわらわから伝えよう。すぐに出かけられよ。」
「はい。それでは失礼を。」
どことなく陰っていた祥の正室が、顔色を良くしたことでやや安堵する三浦は速やかに退出していった。
…お方様には気の毒だが、どうにもならないからなあこればかりは。
新しい側室に寵を奪われた正室に同情しながらも、三浦個人としては対処の仕様がない。
雨は一層激しくなり、風までも出てきた。
三浦は足を速めて自室に戻り、見舞いの支度を始めた。
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